一首評〈第173回〉

嶋稟太郎『羽と風鈴』(書肆侃侃房、2022年)

蕗の葉がテニスコートの北側のフェンスの下に押し寄せている

 テニスコートを囲いこむフェンスの外側でぐんぐんと生長する蕗の葉が下のほうに群れて迫ってきている、という景である。蕗は、太陽の光が届かない湿った空間で育つ植物であり、「北側」という日の当たらない暗い方角を提示することで、陰から蕗の葉がテニスコートに伸びていく少し不気味な景が見えてくる。また、助詞の「の」の畳みかけにより、場所を絞っていく効果だけでなく、フェンスに迫り、やがてテニスコートの中まで侵食していきそうな恐ろしさも感じられる。しかし、この一首は見た景を淡々と表現している歌であり、そこに主体の感情は一切含まれていない。見たもの以外のモチーフを連れてきて感情を比喩的に表現しようともしていない。この景を見た主体は一体何を考えていたのだろうか。

 ここで、結句の「押し寄せている」という補助動詞を用いた結句に注目したい。この主体は、蕗の葉を除けようとも、フェンスに近づこうともせず、ただフェンスの下から迫ってくる蕗の葉を眺めているだけなのである。その深くまで景に踏み入らず、景の中に存在する何かに感情移入しない主体の姿勢が、「押し寄せている」という結句の形に表れている。これが「押し寄せる」であれば、蕗の葉がテニスコートに侵食しようとする圧迫感、蕗という植物のもつ生長の力に恐ろしさを抱く主体が見えるであろう。しかし、ここでは「押し寄せている」であり、「~ている」という少し俯瞰した補助動詞を用いることによって、蕗の葉の描写だけでなく、蕗の葉を気に留めながらもどこかそれを他人事のように思っている主体像が立ち上がってくる。

 コインランドリーの脇の古い路地あじさいの葉がつやめいている

 定刻はとっくにすぎて吊り革が同じリズムでまだ揺れている

 同歌集『羽と風鈴』には「~ている」で締められる歌が他にも存在する。その中の二首を引いた。これらの歌も、確かに主体は実景としてあじさいの葉や吊り革を見ていると感じさせられる一方で、それらから醸し出される詩情に関心を寄せず、離れたところで眺めているような主体も見えてくる。

 桂の木いっぽんいっぽん立っている胸の奥にも夕ぐれの来る

 上の歌も同歌集から引いた歌である。上の句では「立っている」と補助動詞を用いることで、景を一歩引いて捉える主体が見えてくる。一方下の句では「る」という補助動詞を用いない形で締められている。「来る」とすることで、桂の胸の奥にやってくる夕ぐれの暗さを思い、桂の木に寄り添って生命を間近で確かに感じている主体が見える。この「桂の木」と主体との距離は「来ている」では表現することができていないだろう。補助動詞を用いないことで、主体の木に対する想いがより活きた一首となっている。

 このように、景を描写した歌において、「~ている」という補助動詞を用いることは単に状況の存続を示すだけでなく、主体と景との距離を遠ざけると共に、景に深く踏み込まないという一種の無関心さを示す効果を期待できるのかもしれない。

武田 歩