一首評〈第124回〉

山崎聡子「四号線」(『手のひらの花火』)

目を閉じて音だけを聞く映画にも光はあってそれを見ている

5月に発行された山崎聡子の第一歌集『手のひらの花火』からの一首。

写真を光(視覚)の芸術、音楽を音(聴覚)の芸術とするならば、映画はその複合的な表現と云えるだろう。

ここで作者は敢えて目を閉じる。映画の音だけが聴こえてくる。光は見えない。

ところが、「光はあってそれを見ている」。光はある。光とは何か。

目をつぶっていても、作者の前にスクリーンは光り輝いていて、「音」に対応してシーンは揺れ動く。作者は心の目でそのスクリーンを見る。その時、心の中の映像と実際にスクリーンに投影されている映像は一致しない。

誰かに作られた文脈から開放された「光」は、音の実在性のみを頼りとして、新たな映画を構成し始める。

私たちは、それを「記憶」と呼んでいるのかも知れない。

安達洸介 (2013年6月3日(月))