一首評〈第125回〉

辰巳泰子 『紅い花』

いとしさもざんぶと捨てる冬の川数珠つながりの怒りも捨てる

大きな川のある街に住んでみて、同じ川でも夏の川と冬の川では全くの別ものであるということに初めて気がついた。熱い光を反射させる夏の川は、見ていると心がぐんぐんと潤ってゆく気がして、身近に感じられる。しかし冬の川は、そのおそろしいほどの冷たい水温をもって私を遠ざける。
 掲出歌からも、作中主体と「冬の川」には少し距離を感じる。少し離れたところから―橋の上からだろうか―「いとしさ」や「怒り」を捨てるのだろう。「ざんぶ」という豪快なオノマトペは、間に入る「ん」によって川の深さを表わし、「捨てる」という言葉と合わさることによって川へ投げ込むような様を想像させ、主体と川の距離を感じさせる。また、同時に「いとしさ」の重量感をも生む。いとしいという感情はどうしてそれだけでは成り立ってくれないのだろう。いつも他の感情を連れてきてしまう。いとしければいとしい程、他の感情が付随して重量を増していき、抱えきれなくなることがある。時には、いとしさは他の感情の影に隠れてしまう。掲出歌の主体がほんとうに捨てたいのは、「怒り」なのだろう。しかし、その「怒り」は「いとしさ」と「数珠つながり」であり、切り離せないものなのだ。「いとしさ」がなければきっと生まれはしないものだったのだ。ゆえに、主体はいとしさ「も」捨てる。他のさまざまな数珠つながりの感情と共に、「ざんぶ」と捨てるのである。そして捨てられたものたちは、そのまま凍える冬の川に流されて死を迎えるのだろう。しかし、主体は本当に「いとしさ」を捨てるのだろうか。私は、なんとなくであるが、捨てないのではないかと思う。捨てられないのではないかと思う。「ざんぶ」というオノマトペや「捨てる」という言い切った言葉が使われることによって、一首から思い切りのよさを感じるが、この思い切りのよさが苦しい。「いとしさ」とも「怒り」とも一時的に距離をおいて、心を意識的に無にしているようだ。そのような主体が、本当に「いとしさ」とその数珠つながりの感情を捨てるとは思えない。それらの感情は、捨てたとしてもこの主体のなかでまた生まれてしまうような気がするのである。

坂井ユリ (2013年6月16日(日))