一首評〈第132回〉

北村早紀 『星座』

はじめて笑った日のこと思い出せそうだうなずきながら君に手をふる

上記の短歌は、京大短歌10月3日の歌会において発表されたものであり、近日中に結社誌『星座』において発表予定の作品である。本稿においては、この作品を意味と修辞の両面から分析し、その二層性について検討するのを目的とする。また、修辞面においては、アナグラムという日本人に馴染みのない技法に特化し探求し、その有効性を探ることも、本稿の主要な目的としたいと考えている。
 先の作品は、親しい人と別れる際の幸福感に溢れたシーンを描写したものと解釈することができるだろう。その一方で、行間から作中主体の悲しみを汲み取ることができる。それは「うなずきながら」の一節から、作中主体が「君」とある時間を過ごす前までは、頷くことができない「何か」を抱えていたことが推測可能であるためだ。その悲しみが、君と過ごす事で解消されたことが、作品の幸福度を高める働きをする一方、「はじめて笑った日の」という幼少期を示唆する文言から、作者の抱える感情の根源性が際立つ。それは歌に詠まれた喜びのみならず、歌の枠外に存在する悲しみそれ自体の深刻さにも拍車をかける効果がある。作品内部に表現した喜び、そして、作品の外部にほのめかした悲しみの対比が、本作を重層的にし、記号的な喜怒哀楽に還元し得ないリアルな感情表現を可能にしたといえよう。
 このように意味の地平だけで、この短歌の魅力を語ることができるが、その一方で修辞的な側面からも、アナグラムという補助線を引くことで、同等の批評を行うことができる。ちなみに、アナグラムとは文章に含まれる文字を並べ替えることにより、別な意味を持つ文章を組み上げる言葉遊びである。常識的にも、そして、批評的にもアナグラムはあくまで「言葉遊び」の範疇を出るものではない。しかし、言語学者として名高いフェルディナント・ソシュールは、アナグラムに何らかの芸術的な効果があると確信し、アナグラム研究に膨大なノートを費やしたほどである。ただ、その研究は彼自身の死によって、途中で断念されざるを得なかった。その後の学術面においても、アナグラム研究ははかばかしい効果を収めることなく現代に至っている。
 三句目と四句目にまたがる「そうだうなずきながら」のひらがなの部分であるが、ここを並べかえた文字を抽出すると、「絆、嘘だ」となる。あるいは、文字列変更のルールを同じ文字を何度も使用してもよいというところまで緩めれば、「泣きながらうずきながら嘘だ嘘だ」となる。このようなアナグラムを、作中に隠すことによって、主体が抱える日常的な悲しみが、意味の地平においては喜びしかない別れの場面のなかに、あたかもすきま風のように侵入し、作品が多幸感に振り切った単純な作品になることを押しとどめているのである。
 このようにアナグラムを用いて、ある種の批評行為を行うことは「可能」である。ただ問題は、この批評が「正当」かどうかだ。現在の日本文学において、批評行為にアナグラムを持ち込むことは常識的ではない。そして、国外においても、ソシュールの後を継ぐ人間は現れることもなく、アナグラム研究は基本的に停滞しているといっていいだろう。
 もちろん、このような状況であれば、「われこそは!」と名乗りをあげて、アナグラム批評の旗手になるのは若者らしく大変よい。ただ、問題はその勝算である。あの碩学のソシュールが達成し得なかった研究課題を、明らかにソシュールに劣る人間が取り組んで、何らかの業績を残す事は可能なのか。加えて、今の今までアナグラム批評が短歌のなかで行われなかったのは、そもそも需要がないからではないか。なるほど、「アナグラム」という言葉自体のアナグラムも「無くあらむ」=「ないだろう」と言っている。アナグラム研究は、どうやら前途多難のようだ。
 ただ、私たち歌人には、ソシュールが持ち得なかった「武器」がある。ソシュールはホメロスの詩と向き合い必死でノートに向かいながら、「果たして詩人はこのアナグラムを意識的に用いたのだろうか?」という問いに取り組んだ。もちろん、近代のソシュールが、紀元前の人間であるホメロスに直接質問をする事は不可能であり、ホメロスが創作においてどのような思考の変遷を辿ったのかを検討することはかなわなかった。しかし、現代を生きる歌人は、歌会というメディアを通じて、同時代の詩人が、作歌の際に何を考えていたか確認することが、可能なのである。アナグラムを研究するにあたって、「詩即批評」という歌会の形式は、最適といってよいだろう。
 ちなみに、先の歌の作者は、アナグラムに対して「無自覚」であったことがわかっている。つまり、このアナグラムは作者が、巫女的に召還した無意識の修辞であり、詩歌における魔術性をありありと示す作例となっている。さらに、作者がアナグラムに対して意識的でなかったとしても、彼ら(彼女ら)と対面することで、臨床心的な技法を用いて、作者の無意識的構造の手がかりを知ることさえ可能だ。これは、アナグラム研究における圧倒的なアドバンテージといえるだろう。
 先にアナグラム自体に、「アナグラム、なくやあらむ」という文字が隠されていると述べた。確かに、意味の地平だけ見れば、「アナグラムを探求する価値はない」と読み解くことができる。ただ、その一方で「アナグラム」という日本語の単語は、行為遂行的にアナグラムが有効に存在していることを如実に示しているのである。上述の短歌において発生した意味の二重性が、「アナグラム」というごく短い単語のなかでも発生するという非常に稀な自体が起こっているのである。
 「アナグラム」という単語があくまでも日本語であること。そして、日本に「歌会」や「句会」などの詩即批評のメディアを抱えていることを私は運命的なもののように思える。この強烈なアドバンテージを有する歌人たちは、アナグラムに対して自覚的になる義務があるのではないだろうか。ソシュールの未完のノートの続きを記載するのは、ポストソシュールの時代のわたしたちの役割といえるかもしれない。

山田峰大 (2013年10月30日(水))