一首評〈第107回〉

加藤治郎『サニー・サイド・アップ』

書きなぐっても書きなぐっても定型詩 ゆうべ銀河に象あゆむゆめ

頭の中には深くて広いイメージの海があって、そこに静かにきらめきながらたゆたったり、あるいは苦く発酵してどろんと沈んだりした夢の断片を、私たちはどうにかして言葉にしたいのだけれど、できない。近い風景は描写できても、私の見るこの景色をそのままあなたが見ることはできない。それを文章力不足のせいにするか、もとより根源的に分かり合えないのだと諦めるか、いやそもそも自分自身みずからの内にある胸焼けするような思いの組成を一から理解しているわけではないしああもう。

このもやもやが唯一無二であるとの証明がほしい。その癖みんなにこの痛みを分かってほしい。だから、ある時自分でもはっとするような一文に出会えることを期待して、私たちは言葉を調合する。慎重に、かつドラスティックに、選り分けて、削って、付け足して……、なのにどうしてだろう、気づけば歯触りのいい言葉ばかり追いかけて、体裁が整っただけのつまらない文章に終始してしまう。イメージの海は遠く、霧の向こうにかすんで、さっき掴みかけていたはずの光る発想は指の隙間から霧散していく。

書きたい、書きたい、書きたい、書けない。じれったいじれったい、書いても書いてもそこに手が届かない。頭にあるのはゆうべ見たユニークで破天荒な夢。銀河をあゆむ象、なんて突拍子もない、しかし美しい夢。分かっている、この光景を収めるのに定型の檻は狭すぎるのだ。いや実際この歌は破調だし、舌ったらずな平仮名表記も何かしらまどろみめいているが、それでも伝え切らない何かが作者のなかにあるのだろう。だからこんなに痛々しいのだろう。悠久の時を抱き渦巻く銀河も、星の絨毯をふみしめる象も、頭の中なら鮮やかに思い描けるのに、言葉にできない。そのまま、そのまま、夢で見たままを描写したいのに、荒々しく書きなぐったはずのそれは、気づけば扁平に整っていて、勢いも美しさも失われているのが常。悔しくて、悔しくて、悔しいからまたペンを握る。

そう、私たちはそれでもなお書くのをやめない。だってことこの美しい海に限っては、カメラもマイクも使えないから。伝達手段は言葉だけ。だから私たちみんなこうやって唇を噛んで、もどかしさばかりを嘘のように共有しながら、イメージの海をなかば溺れるようにして行く。いつかこの透明の檻を破り、私とあなたの目線がぴったり重なる奇跡を目指して。

川北天華 (2011年8月15日(月))