一首評〈第106回〉

俵万智『サラダ記念日』

江ノ島に遊ぶ一日それぞれの未来があれば写真は撮らず

「江ノ島に遊ぶ一日」では甘ったるいだけの歌が、「それぞれの未来があれば」のひねりで途端に哀愁を帯び、その一日の幸せの真偽すら危うくなっている点が素晴らしいと思う。

江ノ島という地名にはどこか哀愁が漂う。この歌が詠まれた時点では定番のデートスポットであった江ノ島が、今となってはかつての輝きを失っていることが奇しくも甘ったるいハッピーエンドなどでは終わらなかった二人の背中とかぶる。

俵万智の歌には、彼女が橋本高校で教鞭をとっていたため、湘南海岸の歌が散見される。湘南海岸についてのイメージは、一般的には「湘南」を売りにしたイメージ戦略にそったものであると思われるが、実際は雲が垂れ込める陰鬱さも持った土地である。舞い上がる砂と、ねっとりと絡みつく潮の香りに息苦しくなる海岸で、二人は何のために「遊ぶ」、何を思って「遊ぶ」。

たぶんそんなことなど考えていないであろうに、写真を撮ることで未来の自分を傷つけるのを無意識に避けている姿が二人の終わりを暗示している。未来は「それぞれ」のものでしかない点がまた、やるせない。

そして俵万智における湘南海岸は、「忘れたいことばっかりの春だからひねもすサザンオールスターズ」(『サラダ記念日』)へと移ろっていく。

杉山天心 (2011年8月1日(月))