一首評〈第92回〉

東直子『青卵』

怒りつつ洗うお茶わんことごとく割れてさびしい ごめんさびしい

 今年になって立て続けに我が家の陶器が割れた。まずは丼の蓋、次にごはん茶碗、さらにはマグカップの持ち手。一人暮しの狭いキッチンで、そのたび途方に暮れた(たしなみ程度に、だけれど)。四年間使ってきて愛着もあったのに、あまりに唐突であっけなくてしばし立ちすくむ。頭の中に浮かぶことばといったら、(あれま)とか(なんでだよお)とか、せいぜいそんなところである。
 冷静に考えればたまたま時期が重なっただけであるし、そもそも割れた陶器の点数はたったの三つである。そんなおおげさなことではない。でも、おおげさになれないから、余計にどこかわりきれない。

 
 提出歌は一読、ちょっとした異常事態である。異常事態である一方で、どうして異常事態なのかを明確に見定めることは不可能だ。後者の意味において、「おおげさでなく」見えるかもしれない。

 作中主体は、初句からいきなり怒っている。一体なにに、と思う間もなくお茶わんが割れる、それも、「ことごとく」である。
 助詞「て」を挟んで「さびしい」という感情のごくストレートな表出。
 一呼吸置いて、その感情は結句で再び言いなおされる。今度は「ごめん」を戴いて。誰に、なにに謝っているのだろうか、さみしさの出どころと関係があるのだろうか。

 歌われているのはしごくパーソナルな感情の揺れであるのだけれど、読者が入り込むための場面設定は匂わされていない。二句目、「洗う」行為に生活感は希薄だ。三句目「ことごとく」はおそらく、量的というよりはごく主観的な尺度であろう。
 読み手にとってのそうした不可視性・曖昧性を抱えたこの歌が、けれどもどうして感情の共振を生んでしまうのだろう。

 その回答のひとつは、文脈や背景から離れて生起する類の感情の、ある種の純度が担保されているから、ではないだろうか。だからたとえば恋人と喧嘩した、というような、いかにも共感を生む場面をこの歌に代入しても、それはむしろノイズになってしまう。
 ここに歌われているさびしさは、ともすれば共感のきっかけを掴みづらく、取るに足らないものに受けとられるかもしれない。しかし。わかりやすい場面や大義名分を離れたさびしさ。とにかかく今私はさびしいのだ、としか言えないような、突然に襲い来る感情の揺れ。
 作者と同時代を生きていて、たとえば立ちくらみのように不意に生起するそうしたさびしさを、私は知っている。

 この歌を前にして読み手の感情が共振する、そのための拠りどころは、何なのだろうか。ひとつには、歌われる感情の、上述のようなある種の純度、という性質そのものが挙げられるだろう。それは、具体的・日常的場面設定の排除、一首の中で効果的にはたらく舌足らずさ、などと分かちがたく結びついている。
 その上で、そうした「純度」が、親しみやすいリフレインや呼びかけの表現を用いることにより、文体のレベルで無理なく破綻なく、短歌定型の中で支えられていること。この作者の稀有な特長のひとつであろう。

  「そら豆って」いいかけたままそのまんまさよならしたの さよならしたの  『春原さんのリコーダー』
  電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、って言って言って言ってよ  『青卵』

 提出歌を含めたこれらの歌には、関係性への希求「そのもの」が、関係性の背景にある文脈や状況説明に先立ってあらわれている。その意味での感情の純度が、読み手の心を共振させる鍵となる。

 さて、割れてしまった我が家の陶器たちはと言うと、前二者は夏に家族が下宿を訪れた際、ついでに持って帰ってもらい、供養を頼んだ。この辺りには、埋めるのにちょうどいい土がないのである。
 マグカップの持ち手は砕けたままその本体に入れてあり、台所に置きっぱなしにしている。折に触れて視界に入るのだが、たまに撫でてみたり、提出歌を思い出して「ごめん」と心中で、あるいは声に出して、つぶやいてみたりもする。

 無性にそうしたいときが、なぜだかどうしても、あるのだ。

笠木拓 (2010年11月1日(月))