一首評〈第170回〉

「吾妻川」ー森岡貞香『黛樹』

靑空より言葉降りこねくるまにて送られてをり嬬戀村まで

「嬬戀村まで送ってもらっています」というより、「嬬戀村まで私が送られています」と言われているような感じがする。人の運転する車に乗せてもらっている人の言い方として、こんな言い方はあり得るのだろうか。

 歌の状況、連作の状況としてはシンプルで、嬬戀村まで旅に行き、車で行ったのだけれども運転手が主体(=森岡貞香)ではなかったということだ。人に乗せてもらった。しかしその書かれ方がなんだか不思議で、確かに「送られて」いるんだろうけど、人に「乗せてもらっている」「送ってもらっている」ようなニュアンスが全然乗っかっていないような言い方だと思う。受け身の形で書かれているのは言うまでもないが、送ってもらっている人本人の言い方として、「送られてをり」は他人事すぎるように感じる。

 そもそも、車で移動しているということだけを伝えようとするなら、書き方は「車に乗っている」、「車で移動している」でもいいはずだが、この歌はそうではない。つまり、この歌の「送られて」からは単に移動という要素を読み取るだけではなく、その他の部分を強く受け取る必要があるのではないかと私は思う。では、その移動以外の部分とは何か、それがこの歌の「送られて」の言い方の他人事っぽさなのだと思う。

「嬬戀村まで私が送られています」

 このような印象を受ける理由として、下句の「嬬戀村まで」に注目したい。嬬戀村と言えばキャベツの名産で、この車が走っている場所はまだ嬬戀村に到着していないのかもしれないけど、どうしても一首の風景としてはキャベツ畑的なものを想像してしまう。そして、そういう状況のなかで「送られてをり」と言われると、「輸送」のイメージとしての「送られて」が入ってこないだろうか。なんだか歌の主体がキャベツくらいに主体性のない受け身な存在で、でもその主体自身が「送られてをり」と自分で言っている、そんな不思議な感触がある。車に乗せられてころころと「送られて」いるのに、その言葉が「送られて」いる森岡貞香自らのものであるために、のびのびとした様子の森岡貞香が見えてくる。

 さらに、二、三句目にかけての「言葉降りこねくるまにて」の平仮名表記もこの歌の特徴である。森岡貞香は歌のなかでたびたび「車」を平仮名の「くるま」で表記しているが、「言葉降りこね」の「こね」が平仮名表記であるのにつづくこの歌の「くるま」は、より一層言葉づかいが幼いように感じられ、それがこの歌にとっては非常に効果的な働きをしている。幼稚な表記が受け身な主体と結びつくなどということが言いたいのではないが、旅に向かう主体の感情の無邪気さが「降りこねくるまにて」の表記から感じられ、そんな主体自らが「送られてをり」という独自の把握をしている自由さがこの歌にはある。

「嬬戀村まで私が送られています」

 一首を読んだときに、キャベツ畑の遠景に車が一台走っていて、よく見るとその車の後部座席の車窓にはりついている森岡貞香がいる、そんな感じがする。主体は車窓から嬬戀村までの到着を楽しみに外を眺めているのに、その歌のナレーターもまた主体自身であるようなおかしさ。ふつう、そのようなことはあっても回想シーンであったり物語の導入部分であったりするはずだが、この歌では車に乗っている主体の「今」の声が、なぜか天から聞こえてくるような感触がある。

※原文の漢字表記はすべて旧字体

金井優々