藪内亮輔
殺しますよと冗談をいふ時にくる夕暮れは雲、萼、火掠めて
藪内亮輔『心臓の風化』は、なんだか結句の字余りが多い歌集だと思った。
無数の雨に撃ち抜かれつつなほ思ふ心なんてなくても心は歌へる
くさりたるカレー掬へばねばついてこれは誰かのつばさだと云はず
/同
わたしは普段から破調の短歌を作ることも多いのだけれど、やはり結句の字余りは避けたくなってしまう感じがある。現在Q短歌会に所属している俵匠見が行った量的な分析(注)においても、現代短歌において結句の字余りはあまり作られない傾向にある、と結論づけられている。だからこそ余計に気になったのかもしれない。
藪内亮輔の結句字余りには、言い切りの強さを感じる。字余りのひとつの効果として、定まったリズムに対して多い音数を当てることによって、読者を早口にしてその句のスピード感を速めるというものがありえるわけだが、これらの字余りはそうではない。むしろその句をあふれるほどたっぷりと言葉を使って、言い切っている。その内容に対する確信を感じるような、ゆえに読者をその内容から逃してはくれないような、そんな字余りであるようにわたしには思える。
掲出歌も、下の句に字余りが見られる。「雲」「萼」「火」の3つの要素を並列しているわけであるが、短歌において並列することはしばしば、定型のリズムに乗りすぎてしまう難しさを内包している。並列によって自立語と付属語のバランスから成り立つ「しらべ」が崩れて、それぞれの語が「拍」として浮かび上がってくるのである。それはその短歌にとってプラスにもマイナスにも作用しうるのだが、ここではそもそもその効果自体を韻律によって回避している。三句が「夕暮れは」という五音から始まることによって、「夕暮れは雲」と「火掠めて」の七音のかたまりができ、「萼」がちょうど四句と結句の間に中立的に存在するようになる。これによって「雲」「萼」「火」がそれぞれ韻律として独立して読者に届けられているのである。この「萼」がどちらかの句に入って読まれたとたんに(たとえば四句が四音の語から始まったとしたら、「〇〇雲、萼」「火掠めて」の2ブロックに分けられてしまうだろう)、このバランスは崩れて、拍に乗って動き出すことになり、そのスピードは3つの語の持つ意味を置き去りにしてしまう。この絶妙なバランスの上に立つことで、これら3つの並列は、ただの言葉ではなく、それぞれのモチーフとして強く想起され、主体の感情に激しく響き合う。そうして、わたしは、この3つのモチーフに読者として強い確信を持って向き合うことができるようになるのである。
(注)俵匠見(2021)「現代短歌の字余りとリズムについての考察」言語資源活用ワークショップ発表論文集
布野割歩