一首評〈第134回〉

木下龍也 「対少年時代」/『つむじ風、ここにあります』

ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま

他人の中に流れている時間を僕は知らない。ついでに言うと僕も自分の中に流れている時間を詳しく知らない。
この歌の場合も時間の感覚がなんだかよくわからない。じっと読めばこの歌が「だるまさんがころんだ」の歌であるということがわかる。しかし、あの「だるまさんがころんだ!」という発話のことを言っているのであれば少し仰々しい気もする。「事実だけ広ま」るという言い回しはその語法の正しさはともかくとして、日常的にはもう少し大きい規模で使われ、もう少し長い時間を要した時に使われる。
この歌の眼目をもうひとつ話すのであれば、下の句の発見あるいは眼差しであろう。鬼に近づく瞬間を提供する装置として何回も転がったままになるだるまを発見した。たぶん、解釈はそれでいいだろう。もっと言うのであれば「誰にも助けられない」という言い回しでだるまというものを「強者―弱者」の対立関係に落とし込むことに成功し、ただの発見ではなく、「弱者」の発見というものにしている。

しかし、私はもう少し上の句に関する話をしたい。この歌に限らず歌集全体として「時間」というものに対してどのような言葉を与えるかという意味で作中主体の価値基準というものがなんだか錯綜しているように思えた。

だがしかしガードレールにぶつかればガードレールの値段がわかる
鮭の死を米で包んでまたさらに海苔で包んだあれが食べたい

こういう歌を見るとやはりびっくりする。「ぶつかれば」と「ガードレール」の間にある時間の強烈な欠如。「あれ」を食べたいという欲求から想起される長い時間。こういう時間の歪曲を正しくないと僕は思う。しかし文学は倫理でやるものではない。この時間感覚は来たるべきものだったと僕は確信している。

廣野翔一 (2013年12月6日(金))