歌会の記録:2011年6月28日(火)

歌会コメント

佐藤弓生「世界が海におおわれるまで」勉強会。参加者6名。
レポーターは笠木拓、廣野翔一。
Wordに打ち込まれた資料を見ながら、じっくりと意見をぶつけ合いました。世界をとばされるのが楽しい、という人がいると思えばついていけなかったという人が出たり、かと思えば私性の話に飛んだり、皆が積極的に発言する楽しい勉強会でした。

詠草

勉強会資料1(笠木拓)


♪甘いリフレイン
みずみずと垂れるみどりの黒猫をいだいて甘い夏の空間
「嘘つき」と電話を切られた春のこと思えば春と どこまでも春と
丈たかくたかくある夜をふりむけば塩の柱となるここちする
水音のかなたかなたの腐敗かな見ればまわっている扇風機
オルガンがしずかにしずかに息を吐くようにこの夜を暮れてゆきたい

♪自己でないものへの呼びかけ/定義づけ
少女たちきびきび焚火とびこえろ 休符をしんと奏でるように
おびただしい星におびえる子もやがておぼえるだろう目の閉じ方を
口ぐちに羽毛を噴いて藍の夜を駆けぬけてゆけ冬の孤児たち
肺腑まで霧ふれてくる葦原に黒い小鳥の喉(のみと)の発火
形而上好きをゆるされ少年らきらきらと散る遊糸(ゴッサマー)のごと
空のあの青いしげみに分け入って分け入ってもう火となれ ひばり
やや冷えてねむる体をあゆむためふとくみじかくある犀の四肢
みっしりと寄りあう海の生きものがみんなちがってうれしい図鑑
背にひかりはじくおごりのうつくしく水から上がりつづけよ青年

♪違和の感受/感受の違和
林檎ひとつころがり落ちて青果店の幌の青さがふいにあふれる
推しこんでぎしぎしかけたかけめがねひかるたとえば春の砂場に
白の椅子プールサイドに残されて真夏すがしい骨となりゆく
さくらんぼ深紅の雨のように降るアルトの声の叔母のお皿に
昼ふかく浄土に雨の降るを待つ金糸玉子を切りそろえつつ

草むらのコインがまるい銀紙に変わる時間のはやさときたら
背に翼一対濡れて炎天の営業マンはやさしい悪魔
コーヒーの湯気を狼煙に星びとの西荻窪は荻窪の西

♪あなたになれないわたし、になれない
レストランみずうみの面の照り映えてよそ者でいることのたのしさ
ひとつずつ赤ピーマンを切り分ける夏の盛りの検死の手つき
絨毯のもようたっぷり歩く秋とおいあなたの素足になって
うたうならデスクの隅の海綿のようにまぬけに孔をひらいて
うつくしい兄などいない栃の葉の垂れるあたりに兄などいない
心とはついに必要悪なれど夜明けあなたの髭がうつくし
死後を愛されるわたしはこの夜も青い電気に乳をあたえる

☆おまけ☆

背にひかりはじくおごりのうつくしく水から上がりつづけよ青年
佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』

 この歌では水は松平の歌 のように人を死に誘うものではない。プールから上がる青年の背中に煌めく水は、青年の生命力を輝かせるものである。水は器の方形 に従うというが、場面によって死の象徴とも生のシンボルともなる。人は水から上がり続けることはできないのだが、この歌のようにそう命令されてしまうと、 まるで録画の同じ場所を何度も再生して見ているような錯覚を起こすところがおもしろい。
東郷雄二のホームページ「今週の短歌」より

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 「おごり」というマイナスの意味でとられることの多い言葉。
 それが「ひかりはじく」と「うつくしく」というプラスの言葉にまるでオセロのように挟まれて輝いている。
 キリスト教の七つの大罪において「驕り」を象徴する悪魔は堕天使Luciferである。
神に挑んだ反逆者。
 いささか深読みな気もする。しかし、「おごり」の輝きは悪魔的に美しい。このスイマーと思しき「青年」の、神にも逆らいかねない全能感がむきだしになっている。
 「水から上がりつづけよ」。「人は水から上がり続けることはできないのだが、この歌のようにそう命令されてしまうと、まるで録画の同じ場所を何度も再生して見ているような錯覚を起こすところがおもしろい」と東郷雄二が述べているが、瞬間の永続的な再生、ここでは一刹那の時間が永遠に等しい強度で描かれている。東郷はここでの「水」を生のシンボルという風に捉え、歌全体を青年の生命力の輝きを描くものと捉えているのだが、瞬間の永遠化はまさにそれを強調するものであろう(*)。
しかしそれとはちがった読みも可能かと思われる。
 上 句の描写はまさに現在の一瞬を切り取ったものであるが、下句においてそう命じる作中主体の視点は、あくまで現在にとどまりつつも、現在を超えている。スイ マーとして自己と闘い続ける「青年」のぬれて光る背に凝縮され、投影された、彼の過去、そして未来を見据えているかのようだ。
 それは「青年」への賛歌であるが、「いつか挫折の日がくる」という皮肉なメッセージを含ませたものかも知れない。
 「おごり」という言葉がそれを匂わせる。Luciferは神に敗れ、天を追われるのだから。
*:ちなみに東郷は、歌全体をメタファとみなし、「青年」をスイマーとは捉えていないように思える。
評:吉岡太朗 (2007/07/01)
京大短歌ホームページ「一首評の記録」 より


勉強会資料2(廣野翔一)


佐藤弓生「世界が海におおわれるまで」勉強会レジュメ
 
・作者プロフィール
佐藤弓生(一九六四~)
石川県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。大学卒業後参加していたファンタジー同好会で井辻朱美の『水族』を読み作歌を始める。「かばん」を拠点にして活動。二〇〇一年に「眼鏡屋は夕ぐれのため」で角川短歌賞を受賞。『世界が海におおわれるまで』『眼鏡屋は夕ぐれのため』『薄い街』といった三冊の歌集を発表。作歌だけでなく詩人、翻訳家としても活動。

・歌集プロフィール
「世界が海におおわれるまで」
二〇〇一年に出版。佐藤弓生の第一歌集。一九九九年角川短歌賞次席作品「夜の鳥」など収録。

・作品の特徴
自己像を描かないこと
近代から続く「私」からの脱出。

秋の日のミルクスタンドに空瓶のひかりを立てて父みな帰る「夜の鳥」
てのひらに卵をうけたところからひずみはじめる星の重力
食卓に無窮カノンが止むときも夜は林檎のかたちをめぐる

では「私」とは何なのか?
靴箱に互い違いに入れられて小さな闇にしまわれており  松村正直
自転車に散歩をさせているような、秋の終わりの川原をくだる  土岐友浩
理不尽な寒さをコートに抱き込んで嫌いな人の口笛を聞く   小林朗人

すなわち「私」とは歌の中で結実する自己像のこと?

・韻律のよさ
理容師の忘我うつくしさきさきと鋏鳴る音さくら咲く音
「カーレン・プリクセンのおしえ」
いつまでも薬はにがいみどりめくめがねの玉をみがきにみがく「夜の鳥」
コーヒーの湯気を狼煙に星びとの西荻窪は荻窪の西  「荻窪の西」

・詩的飛躍の中に見え隠れする「元ネタ」

いくとせののちあけがたにくる人は口にみどりの蝉をふくんで「夜の鳥」
測量が終わりましたと妖精の署名やさしくタケミツ・トオル

・実験作?
「会社の椿事」・・・佐藤の作品にしては自己像が結実する作品。

・井辻朱美との比較

われもまた異土の木の卓打ちながら来む世の綺羅のものがたりせむ 『水晶散歩』
〈嗚呼エアレンデルあかるき天使〉かの世より隔世遺伝のことばをつたふ
しっくい壁に黒き木骨が食いこみてルーン文字のごときに夕映え
夏の緒のごとき長髪なびかせて嵐が丘をおりくるたましひ

岡井隆は『現代百人一首』(朝日出版社)で井辻を取り上げて、その歌の近づきにくさは「ファンタジー小説とよく似た自閉的な完結感」から来ると断じている。確かにその通りで、井辻の作る歌の世界は作者の〈私〉からも読者の私からも遠い白鳥座のかなたにあり、美術館の壁に飾られた一幅の絵画を遠くから鑑賞するごとくに味わうしかなく、読者の側から歌の中に感情移入したり、歌の中に作者の〈私〉を見いだして共感したりという読み方が不可能なのである。(東郷雄二「今週の短歌」より)

階段にうすくち醤油香る朝わたしがいなくなる未来から『薄い街』
星動くことなき夜のくることもなつかし薄き下着干しつつ
ぜったいに来ない未来のなつかしさバナナフィッシュの群れのまにまに
ほがらかに喪服の群れがくだりくる朝のメトロに 生はなつかし

一首目では未来から醤油の香りが匂って来るのだが、その未来には私はもういない。存在と非在とが捻れた時空間のなかで共存しているかのような奇妙な感じか残る。また二首目の「星動くことなき夜」というのは地球が自転を止める遙かな未来だが、それが「なつかしい」というのも転倒した時間意識である。同じように三首目でも未来がなつかしいと断定されている。「バナナフィッシュ」はサリンジャーの小説『バナナフィッシュにうってつけの日』に登場する架空の魚だから、ここにも反転された非在の世界がある。バナナフィッシュの名前を多くの人は吉田秋生の名作コミックで知った。四首目に登場する喪服の群れは葬儀を連想させ、「生はなつかし」は死後からこの世を眺める目線だろう。
 佐藤はこのように時空を自在に遊弋する。佐藤が逍遙する街とは、どこにでもある街でありながら、同時にどこにもない街であり、それが「薄い街」ということなのではないかと思われる。それは詩精神がすくい取った世界であり、現実世界と似ていながら、現実世界と同一のものではない。誰もが日常目にしていながら、誰一人目に入っていない、そのような時空間かと思われる。佐藤が歌によってこのような世界を眼前に現出させるときに用いている手法は、すでに上でも述べたように意味の反転と時空の捻れといった手法である。このようにして出現する世界は、永田和宏がかつて『表現の吃水』(1981年)で美しい数学の比喩を用いて「虚数平面」と呼んだ世界とそれほど隔たっているとは思えない。佐藤の作風はリアリズムから遠く離れているにもかかわらず。(東郷雄二「橄欖追放」より)

(十首選)
少女たちきびきび焚火とびこえろ 休符をしんと奏でるように
きよらかなきみに逢いたい中性子降る降る冬の渋谷の街で
秋の日のミルクスタンドに空瓶のひかりを立てて父みな帰る
ゆるやかな球面未来にいるきみへ〈冬ノ航空公園デ待ツ〉
談笑をかわすホールの遠くより鼓膜を圧してくるものがある
美しい地獄と思う億年の季節を崩れつづけて月は
きまじめな企業スパイに下された最終指令〈オレンジを踊れ〉
青空は犀の領域 一塊の熱量となり千鳥をまねく
「夢といううつつがある」と梟の声する ほるす るいす ぼるへす
背にひかりはじくおごりのうつくしく水から上がりつづけよ青年
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