斉藤斎藤 第一歌集『渡辺のわたし』 研究会報告
斉藤斎藤 第一歌集『渡辺のわたし』 研究会報告
04年10月23日(土)、企画・運営觜本なつめ、下里友浩、西之原一貴。 作者である斉藤斎藤氏を東京よりお招きした。 外部からは、「塔」の松村正直さんが参加された。 内部では、企画・運営の3名のほかに、金田光世、北辻千展、東郷真波、棚木恒寿、光森裕樹、澤村斉美(順不同)。 レポーターは、西之原一貴、下里友浩、飛び入りで澤村斉美。
歌集全体を貫くテーマが実存に関わるものであること、そのテーマ自体はオーソドックスなものであること、「父とふたりぐらし」という一連を他の連における主体と地続きの主体の物語として読むか、あるいは地続きにならない虚構の主体の物語として読むのか、といった指摘・問題がはじめの方で共有された。 その中にあって、松村氏の指摘は貴重であった。 いわく「位相の違う言葉が一首の中で融合されている」。 それが新しいのだ、という意見だった。
時間をかけて、集中の数々の歌を取り上げ、語り尽くした。 午後1時から5時まで、司会者・京大短歌の参加者ともぶっつづけで行うことを当然のように思っていたが、通常、こういう会では真ん中あたりで休憩をとる。 斉藤さんの「休憩をとろう」の一言により一同われにかえり、休憩をとることにした。 懇親会からは、正岡豊さん、入交佐妃さんがゲストとして加わる。 京大短歌の増田一穗、香山凛志も加わり、鞠小路沿いの「大文字」にて。
お酒も注がれてよい頃合、
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁
の歌を例にとり、斉藤氏・下里チーム、棚木・西之原・澤村チームの短歌観の違いが明らかになる。 棚・西・澤は、「なんでしょう」というとぼけた会話体を「ずらし」として読む。 すなわち、あるウェットな感情が下句のぶちまけられたのり弁に象徴されているのであり、「なんでしょう」というのは、そういった核心を真正面から言わない「ずらし」のレトリックであると理解しているのだ。 一方、斉藤氏は、京大短歌の面々のねばり強い攻勢に屈することなく、自らの短歌観を明されることはなかったが、言わんとされていることはなんとなく分かった。 すなわち、斉藤氏は、この一首においては「なんでしょう」という疑問を、字義どおりに受けとる、そういう読み方をするという。 この見解から推測するに、斉藤氏は、棚・西・澤がのっとっているような短歌におけるレトリックが暗黙のうちに持つ読みの約束事のようなものからの解放を試みているのではないだろうか。 言葉を、読みの暗黙の約束に囚われず、字義どおりの意味を伝達する明快な言葉として捉える。 言葉の明快さ、平明さへの志向がある。
さて「あろい酒家」に移動。 中島裕介氏と第3回歌葉新人賞受賞者のしんくわ氏が登場する。 しんくわ氏指定のお題「バスケット」を頂き、即題詠歌会。 斉藤さんは、帰りの深夜バスをふいにして、つきあってくださる。 今日は朝まで残るという宣言を「大文字」でされていた。 ありがたいことである。 一方で申し訳なく、わずかながらバス代をカンパする。 この日は松村正直氏にも帰る気配なし。 タフな大人の皆さんとこういう会を持つことが出来て幸せだ。
「からふね屋珈琲店」に移動。 題詠歌会の続き(すでに、脱力状態の人も何人か)。 三々五々、歓談。 いきなりチョコレートパフェを注文する松村さん。 時間は午前3時。
そしていつの間にか席の一部で始まる題詠。 題は「交」。
ひとり二人、帰宅する者が出、午前6時半に解散。 手を振り、タクシーで去る正岡さん、しんくわさん、斉藤さん。 本当にありがとうございました、どうかお気をつけて。 東大路を北方へ去る入交さん。 どうぞまたいらっしゃってください。
そして京大短歌の面々も解散。 「久しぶりに京大短歌らしい集まりでした」と北辻さんの言葉。 冷え込んだ朝で、筆者はこの翌日風邪をひいた。
社交はともかくとして『渡辺のわたし』研究会を経ていろいろ考えることになった。 一つはさきほども述べた、斉藤さんとの短歌観の違い。 もう一つはこれもさきほど述べた斉藤さんの試み。 斉藤さんの試みには悪意がある(悪意とは、強い意志の感じられる作意という意味で、もちろん誉め言葉だ)。 言葉の明快さへの志向は、現代の短歌への叛意なのかもしれない。 今年の角川短歌賞を受賞した小島なおの「乱反射」、これは悪意があるというのとは違うが、言葉の明快さへの志向は明らかだ。 一つの流れが生まれつつあるのかもしれない。
(澤村斉美 記)
(澤村斉美、下里友浩、西之原一貴のレジュメを以下に掲載します。)
斉藤斎藤著『渡辺のわたし』研究会レジュメ
2004年10月23日 澤村斉美
〈歌集に読みとれる意図〉
・その人がその人であることへの疑問と不安
題名をつけるとすれば無題だが名札をつければ渡辺のわたし(P.39)
このなかのどれかは僕であるはずとエスカレーター降りてくるどれか(P.88)
母さんの神話にわりと忠実に生きるわたしは細部に宿る(P.64)
君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景にもどった(P.9)
「座椅子にすわる」の一連(P.88~)
おまえの世界に存在しない俺の世界のほぼど真ん中ガムを噛んでいる(P.91)
それぞれのひとりをこぼさないようにあなたのうえにわたしを置いた(P.93)
ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる(P.96)
寝返りにとりのこされて浮かんでるひだりのうでを君にとどける(P.105)
・全体のテーマ総括的な一連
「とあるひるね」(P.106~P.108) … 「わたし」と「あなた」
・明確・明快な自己解説への志向? … 実存に関する疑問と不安の裏返し
「ちから、ちから」(P.18~P.28) … 愛する人がいなくなる
「父とふたりぐらし」(P.52~P.68) … 家族の事情
→ 自己に与える物語として読める、が。
〈歌の特徴〉
・会話体による核心回避→どもる感じ、欠けた感じ、大事なところを回避する
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁(P.27)
・同じ言葉の繰り返し→空虚感
・できあがったフレーズを取り入れる→乾き。 表面上感情のウェットさを極力削ぐ
加護亜依と愛し合ってもかまわない私にはその価値があるから(P.52)
・数字好き
・意味がまったくぶれない言葉の選択、出来事の記述報告的なもの。
一九七二年、出産に居合わせた母親から生まれ。(P.54)
☆スーパードライな文体で自己を造形 ← 反語的にウェットさが読みとれる。
☆文体の特徴がすべて空虚な感じに結びつく。
〈十首選〉
「斉藤さん」「斉藤君」とぼくを呼ぶ彼のこころの揺れをたのしむ(P.8)
ふとんからふりだしにもどる匂いがしてまた日曜の午後の陽だまり(P.12)
誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる(P.35)
蛇口をひねりお湯になるまで見えている――そう、ただ一人だけの人の顔が(P.38)
カーテンのはるか手前のリモコンで東京の空つけるまぶしい(P.53)
目に映るすべてが君に見えてきて君じゃなさそうな駅員を抱く(P.95)
横断歩道の手前でかるく立ち枯れていちまいの葉を裾からこぼす(P.100)
寝返りにとりのこされて浮かんでるひだりのうでを君にとどける(P.105)
あなたは起き上がりベランダへ出る 鍵はなかゆびで開けるんだね(P.107)
あなたの空もちゃんと青くてサンダルはあなたのかかとにぴったりしてる(P.107)
斉藤斎藤「渡辺のわたし」研究会レジュメ
――なぜ斉藤斎藤は名前を喪失したか?
2004年10月23日 下里友浩
(当日配布したレジュメの内容に、【すみつき括弧】で注釈を加えました)
「文体とは、作品中に現れてくる<私>が、発話主体と、決して散文的・日常的水準で重なるものではないということを保証する方程式である。あるいはそれは、日常的行為者としての<私>を、詩の構成要因たる<私>へと押し上げるための梃子である。」
永田和宏「表現の吃水」より、1979年
「ソ連解体くらいまではかろうじて命脈を保っていた<大きな物語>は、九〇年代には完全に失効した。私たちの手に残されているのはもはや<小さな日常>でしかない。しかし、<小さな日常>は際限なく断片化するため、共有することの難しい資源である。今の若い歌人たちが<対立の文体>でなく、<フラット化された文体>を志向し、<日常的私>に「リアルなもの」を探そうとしているのは、ここに理由があるのではなかろうか。」
東郷雄二「文体はどのような<私>を押し上げるか――新鋭歌集の現在」
(「短歌ヴァーサス 第五号」より、2004年)【文体観の変化――詩的に「押し上げられる」存在としての<私>、だけに価値が見出されなくなった。】
(1) <私>も<世界>も異化しない
――日常を定型にのせるという行為、そのものへの信頼
「教員になって二度目の春です」と終えたメールのなんでもなさよ千葉聡
傷ついたほうが偉いと思ってる人はあっちへ行って下さい加藤千恵
(2) <私>ではなく、<世界>が異化される――目に映る世界の物語化、への渇望
見てしまふ 背広の人がしんしんと愛犬の耳齧っているを石川美南
御船千鶴子の無念受信し液晶の画面に月の裏側写る藤原龍一郎
(3) <世界>そして<私>が異化される――演劇的空間の周到な構築、へのあこがれ
地下街を廃神殿と思ふまでにアポロの髪をけぶらせて来ぬ黒瀬珂瀾
朝焼けの売られる声が聞こえたら おいで カーテンのとどかない部屋増田静【斉藤斎藤は、ここには挙げられていない(4)、なのか?】
では、斉藤斎藤のうたは現代とどのように対峙しているのか?
「斉藤作品には、格闘技の競技会に傭兵が出場してきたような、そんな緊迫感があった。世界にがんじがらめになった言葉の、痺れるような『不自由さ』に感動する。」
――穂村弘【第二回歌葉新人賞「ちから、ちから」に対するコメント】「渡辺のわたし」集中さいごの連作「とあるひるね」全七首
(以下、引用歌の作者は、とくに註がなければすべて斉藤斎藤)
ひるねからわたしだけめざめてみると右に昼寝をしてるわたくし
あなたの匂いあなたの鼻でかいでみる慣れているから匂いはしない
あなたは起き上がりベランダへ出る 鍵はなかゆびで開けるんだね
あなたの空もちゃんと青くてサンダルはあなたのかかとにぴったりしてる
せつない とあなたの声で言ってみる あなたの耳に聞こえてる声
カラスが鳴いて帰らなければなにひとつあなたのわたしはわからないまま
ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります
文体の特徴:
1. いわゆる口語。それも話しことばにちかく、しばしば俗語も見られる。
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁
2. 定型に立脚しているが、字余り字足らず、句またがりがおおい。((1)の歌人と比較せよ)
どいつもこいつも無視しやがってとつぶやいて鏡を見ればおれがいない
【斉藤斎藤には日常を定型に載せることへの信頼はない。日常というよりも、むしろそれを覆うシステム(漠然としすぎている言葉だが)へ関心があるからだろう。】
モチーフの特徴:
1. <作中主体>の日常をうたう。世界が非現実的なものに異化されてはおらず、主に<作中主体>のレトリックによって斉藤斎藤ワールド(死語か?)が形成されている。
めざめると顔をあらって靴下をはいて出かける癖があります
上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに
2. いわゆる「ただごと」を切りとってうたう。
リモコンが見当たらなくて本体のボタンを押しに寝返りを打つ
カレーには味噌汁が付く 味噌汁のわかめのために割り箸を割る
3. 引用(自分の詩世界構築のために、あらかじめ共有されている作品世界を利用する方法論、のはずだが……。)
しあわせだなあぼくは君といるときがいちばんα波が出てしあわせなんだ
ひとりじゃ孤独を感じられない小野さんにグレープフルーツを搾らされる
(内側の線まで沸騰したお湯を注いで明日をお待ちください)
(泣きやんでしまう前にとハンカチを構えていたら脛を蹴られる)【位相のちがう言葉を組み合わせるおもしろさ、とは松村正直氏の指摘。斉藤斎藤はあらゆる他者の言葉をわずかに捩じりながらとりこむことによって、時代やそのなかの自分を切り開こうとしているのか、どうか。】
斉藤斎藤における<私>性
1. <作中主体>のまわりには、誰も名前をもった人物がいない。そもそも「斉藤斎藤」という作者名も、われわれが漠然と考える意味での「名前」を欠いている。
題名をつけるとすれば無題だが名札をつければ渡辺のわたし
矢野さんが髪から耳を出している 矢野さんかどうか確認が要る
お母さん母をやめてもいいよって言えば彼女がなくなりそうで
タカシ、って君が泣くから小一時間ぼくはタカシになってしまうよ
完全なかたちで名前が出てくるのは、すべて芸能人である。
東京23区推奨のむこうの小倉優子と三度目が合う
(十冊で百五十円也赤川次郎の本が雨につよいことがわかりぬ高瀬一誌)
【破調の口語文体、日常というモチーフ、下の句への飛躍、など、斉藤斎藤と高瀬一誌との類縁を指摘できるか。(ちなみに両氏は結社「短歌人」所属である。】
(名前のみ出てくる人物は<作中主体>とどのような関係なのか、さっぱり特定できない)
(「健一さん、これは三色スミレですか?」「いえ、責任能力です」)
2. <わたし>の拡散
a.<わたし>は不連続な存在である。
豚丼を食っているので二分前豚丼食うと決めたのだろう
エレベーターの3のランプが点いて消え2が点く手前わたくしが匂う
蛇口をひねりお湯になるまで見えている――そう、ただ一人だけの人の顔が
b.<わたし>のそとに<わたし>がいる(同時にいる)。(*きわめて特異な<わたし>観)
わたくしの代わりに生きるわたしです右手に見えてまいりますのは
このなかのどれかは僕であるはずとエスカレーター降りてくるどれか
私と私が居酒屋なので斉藤と鈴木となってしゃべりはじめる
c.このような<わたし>観は、擬人法を変質させる。
池尻のスターバックスのテラスにひとり・ひとりの小雨決行
何の因果かわたくしめがけ降りしきるみなさんに上を向いてようこそ
街灯に近づくたびにあなたからのあかりにつつまれてはやせがまん
「ぼくはただあなたになりたいだけ」――だからこのような文体が生まれた、のか?
おれはおれが何故何故何故かきみはきみを抱いているセミダブルベッドで
おおくのひとがほほえんでいて斉藤をほめてくださる 斉藤にいる
それぞれのひとりをこぼさないようにあなたのうえにわたしを置いた
渡辺のわたしは母に捧げますおめでとう、渡辺の母さん
その後の「渡辺のわたし」
なまぬるい椅子にすわっていたひとが歩いていったじゅうたんの上
洋風に鳩サブレ焼け、かつてなく薄汚れたる平和の祈り
(突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼塚本邦雄)
信号は赤になっても錆びていた お茶本来のほのかな甘み
渡辺のわたしの上のいなりずし3個パックを置いたのが父
(以上、短歌ヴァーサス第五号)
宇宙。「吉田、金返せ」「ない。」「……なら、仕方ない」宇宙。
(短歌人、2004年10月号)
斉藤斎藤歌集『渡辺のわたし』批評会レジュメ
2004年10月23日 西之原 一貴
転換(1)= 身体・他者の記号化
矢野さんが髪から耳を出している 矢野さんかどうか確認が要る(P.27)
ビルでも見ようとしたら柳沢さんがビルを見ていた背広が見える(P.7)
自己の客体化、記号化 → 過剰、悪意、シャイネス
ぼくはいまのどちんこまで引っ込んで前歯を閉じてつり革をにぎる(P.46)
お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする(P.6)
転換(2)= 無意味なものの存在感
2番ホームの屋根の終わりに落ちている漫画ゴラクにふりそそぐ雨(P.29)
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁(P.27)
ねむるのもったいないような夜は転がって天井の木目のあれを見る(P.36)
素朴な世界観 = とりのこされて
寝返りにとりのこされて浮かんでるひだりのうでを君にとどける(P.105)
あるあくる朝めざめると左手は洋梨をにぎりつぶしたかたち(P.37)
父とふたりぐらし = notリアリズム、butフィクションとも言い切れない
とうさんはくたびれてきてかあさんをなぐる代わりに駅伝見てる(P.59)
お母さん母をやめてもいいよって言えば彼女がなくなりそうで(P.60)