穂村弘
許せない自分に気づく手に受けたリキッドソープのうすみどりみて
ショッピングモールやレストラン、喫茶店など、僕たちが出かける先にはトイレがあるのが普通である(しかし、阪急梅田駅前のドトールにはトイレがない)。トイレに置いてあるハンドソープには2種類あり、「キレイキレイ」など泡々しているものと、掲出歌にもある「うすみどり」色の「リキッドソープ」である。泡々しているハンドソープの時、少しだけテンションが上がる、テンションが上がるというか、安心すると言った方が近いだろうか。「リキッドソープ」の時は、〈なんかもう、水だけでちゃちゃっと洗ってさっさと出るか〉という気になることさえある。
「手に受けたリキッドソープのうすみどり」をみる時、僕たちはどんな感覚になるだろう。そこにある、手を洗うためのシステムに(一応)追随し、誇張して言えば〈手を洗った〉というポーズをとるための、あってもなくても大差がないようなその瞬間である。ニュートラルにその瞬間だけを切り取ると、僕たちの中に意思はほとんど残らず、まるで自我や主観が滅却されたような、なんの充足感も不足感もないような、不思議な感覚に陥る。「許せない自分に気づく」瞬間(ここでは、その内容についてはわざわざ書かないことにする)というのは、まさにそんな瞬間ではないだろうか。
俳句や短歌などでは、「二物衝突」、「取り合わせ」という語をたびたび耳にする。「二物衝突」を成功させるポイントは、「裏切り」によって読者を驚かせることではないと僕は考える。衝突させる二物の間の、微細な通信を描くのである。その通信は「共通性」でもよいし、「対比」でもよいし、「質感」など曖昧な基準でも構わない。掲出歌は、読者によっては心情と景の「二物衝突」「取り合わせ」だと読むこともあるだろうが、上述のような二物の通信を感じ取ることができる。それが感覚的に、そして納得感を伴って読者に手渡されるのが、この歌を秀歌たらしめている所以であろう。
ところで、「リキッドソープ」を手に受ける瞬間というのは、近代社会においては抹消されうる瞬間である。僕たちはあるいは、手を洗うのは水だけで済ますかもしれない。そんな微かな瞬間を切り取り、社会的には無かったことにしてもいいその瞬間に息を吹き込み、それに色をつけるというのは、短歌、ないしは短詩文芸だからこそなしうることではないだろうか。
中島丈多郎