一首評〈第166回〉

穂村弘『シンジケート』

花びらに洗われながら泣いている人にはトローチの口移し

トローチとは、咽頭炎などに効く、飴のような薬剤である。「花びらに洗われながら」「口移し」という描写に強くロマンチシズムが表れている一方で、相手の悲しみを「トローチ」で治そうという、見当ちがいなやさしさも見受けられる。一首を読み終えたところで、愛にまっすぐでありながらもどこか不器用な若者の姿が浮かび上がってくるのではないだろうか。
この短歌で注目すべきは、下句の韻律である。7・7で区切ってみると、「人にはトロ―/チの口移し」というように、「トローチ」の「チ」の音が結句にせり出すような形になっている。この「チ」が、この短歌の独特な読後感を駆動させるスイッチとなっている。
われわれが「韻を踏んでいる」と感じるときは、①同じ子音が繰り返し使われている、②同じ母音が繰り返し使われている、③同じ文字が繰り返し使われている、のいずれかであることが多いだろう。①と②の複合が③であるため、印象としては、①、②よりも③の場合の方が「韻が固い」「より効果的である」ように感じることになる。
このことを踏まえると、この短歌の結句では、「トローチ」の「チ」に対して「口移し」の「ち」「つ」「し」の3音で韻を踏めることになるだろう。しかし、この短歌で重要なのはむしろ韻を「踏めない」ことにある、とわたしは考えている。
「脚韻」という言葉のとおり、「トローチ」と「口移し」は語の最後の音「チ」と「し」で韻を踏めるが、しかしこの脚韻はこの短歌で十全に機能しない。なぜならば、「トローチ」の「チ」に対して、まず、韻の固い「くちうつし」の「ち」が強い音で(有声音的に)現れるからだ。しかし「チ」の直後、頭韻でも脚韻でもなく語の途中に突然置かれたこの「ち」に即座に反応できず、わたしはこの「ち」を踏み損ねてしまう。まさに息つく間もなく、その後に続くのは、はにかむように弱まっていく(無声音的な)「つ」と「し」であり、わたしは、がたがたと踏み外すようにこの2音を踏みにいくことになる。
言葉を大きく踏み外して、にっと口を横に広げた滑稽な様子でいるわたしの前には、同じように、真面目な顔でしかしどこか気恥ずかしそうにしている主体の姿がある。そのときに改めて、わたしは、主体の存在を心の底からいとおしく感じることができるのである。

布野割歩(2024年12月4日(水))