五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2013)
いまなにを待っても悪意 梅の花ひかる世界に目をおよがせる
「いまなにを待っても悪意」とはなんのことだろうか、なぜいまなにを待っても悪意なのかは分からないが、出だしから物語性をはらんでいて、なぜか惹かれてしまう。そして一字空けてカメラが切り替わる。梅の花が光を反射する一瞬をとらえているような感じがして、スローモーションに景が立ち上がる。普通は「目が泳ぐ」だ。泳ぐだと目がおどおどとあっちを向いたりこっちを向いたり、勝手に泳いでしまうような景が立ち上がるが。作者は主体が能動的に目をおよがせるのだと詠む。梅の花を目で追っているのだろう。テキスト上で光っているのは梅の花だが、梅の花ととも生き生きと艶のある眼球も見えてくる。「いま」や「およがせる」がひらいているのも相まって、明らかに情報が足りないはずなのに不思議な世界観が映画のように立ち上がる。大胆な省略をしているにもかかわらず、読者を一度捉えれば離さない歌だ。
寺元葉香(2024年10月8日(火))