一首評〈第161回〉

橋爪志保『地上絵』

ラメ付きのスーパーボールに住んでいるひとかよきみは地球ではなく

スーパーボールが自分の生活から失われて何年になるだろう。スーパーボールはわれわれの人生にどうしても必要なものではないし、しかもそれが、なおさら不必要にラメで飾られている。しかし、主体には「きみ」がそのスーパーボールに「住んでいる」ように思われる。その不思議な感覚が、口語で率直につづられた短歌だ。

この歌の要は、語順であるとわたしは考えている。素直な語順に直せば、「きみは地球ではなくラメ付きのスーパーボールに住んでいるひとかよ」のようになるだろう。この歌がこの語順である意図を考えるために、同じ歌集から二首引用する。

僕たちは蛾のように飛ぶ蛾になって、それもでかい蛾 社会が苦手
きみの胸には鰐がいるポロシャツの刺繍とかではなく知っている
/橋爪志保『地上絵』

一首目について、「僕たちは蛾のように飛ぶ蛾になって」までで、読者と主体の間で、何らかの感覚が共有される(ように感じる)。「蛾のように飛ぶ蛾」というものに対して、読者と主体の間でひとつの約束がなされたうえで、「それもでかい蛾」と投げかけられることによって、その約束が揺るがされる。読者が主体と共有した「何らかの感覚」は、真に共有されたものであったのか、再び問いかけられるのだ。「それもでかい蛾(の話をしているけれど、ほんとうにわかってる?)」といったニュアンスである。読者は、その読みを一度拒まれることによって、主体の感覚をより真に掴むことができたように感じてしまう。
二首目は、この歌集における主体(作者)と読者との関係をもっとも簡潔に示していると思う(ここでの「主体(作者)」という表現は、主体と作者を同一に読むという意味ではなく、この試みは主体レベルで行われていることとも作者レベルで行われていることとも考えられる、という意味である)。「きみの胸には鰐がいる」という表現を提示されたときに、読者が想像できる読みとして「ポロシャツの刺繍」があり、しかしそれが主体(作者)によって「ではなく知っている」と否定される。そうすることによって、「きみの胸には鰐がいる」という主体の感覚が、「ポロシャツの刺繍」である、あるいはその他様々な読者の解釈を通さず、改めて主体の感覚のまま読者に手渡されるように感じられる。

それでは、最初に挙げたスーパーボールの短歌に戻ろう。「ラメ付きのスーパーボールに住んでいるひとかよきみは」まで読んだときに、読者は何らかのかたちで「ラメ付きのスーパーボールに住んでいる」「きみ」についてのイメージを主体と共有することになるだろう。しかし、最後に「地球ではなく」と付け足される。われわれの生活の舞台である「地球」と、生活に必ずしも必要ではない「ラメ付きのスーパーボール」が、形状の上で重なり合う、というピースが最後に提示されることで、「きみ」に対するイメージが更新される。そのときになってようやく、読者は主体と同じ感慨を受け取ることができるのだ。

布野割歩 (2024年7月15日(月))