一首評〈第159回〉

花山周子 『風とマルス』

水鳥の潜りしのちをたゆたえる海はおそろし音立てなくに

 実際のところ、祭りの祝祭感がもっとも高まるのは、祭りそのものが行われるときよりも、その祭りの前日の準備、さらに言えば準備が完成する間際であろう、ということは容易に想像がつく。つまり、祭りが始まりつつあり、それを完成させるのが我々なのだという暗黙裡の連帯感は高揚をもたらすのだが、その瞬間こそがもっとも「祭り」的なのである。完成されていくと同時に現実味を帯びつづける祭りとその予感の膨張は、祭りそのものを越えてゆく。祭り以上の祭り。
 ここで注目すべきは、「つつある」という状態である。祭りが完成し「つつある」という状態は、祭りの準備に祭り以上の祝祭感をもたらし得る。
 掲出歌において、作中主体が「おそろし」と感じたのは、もちろん水鳥が潜った瞬間ではなく「潜りし後」であるから、ここにはタイムラグが存在する。水鳥が潜る瞬間を作中主体が観測する。水鳥は水中で狩りを行うためしばらくは水上に姿をみせない。水鳥が水中にいる間、作中主体は海を見つづける。その時間のあまりの長さに不安が募りはじめる。不安はやがて水鳥が潜った後も無音で揺蕩いつづける海へと対象を移す。ここで、海が外見上は「たゆたう」という状態を持続していることが、反転して水鳥を呑み込んだ後の海の内部の変化をもたらしている。それは事実上の変化ではなく、認識上の変化であるが、作中主体の認識の変化は読者の認識をも変化させ、水鳥を含んだ海の内部がどこか蠢いているように感じられる。ここで作中主体及び読者が感じている不安は、海という圧倒的な存在に対する畏怖である。この歌は、古来畏怖の対象とされてきた海の雄大さを、描写によってではなく、認識の変化によって伝達している。そして、この伝達をもたらしているのが、前述した「つつある」という状態である。つねに揺蕩いつづける海が、おそらくそれまではただの景色として存在していた海が、水鳥を呑み込んでなお無音で揺蕩いつづけていることによって、畏怖の対象としての存在感をもち「つつある」。そして、その間の海の存在感は、私たちが見たり想像したりする海を超えているはずだ。やがて水鳥が水上に姿を現せばこの畏怖も失われるかもしれないが、すくなくとも海が私たちの畏怖の対象となりつつある間、その海は海以上の海なのである。

奥村鼓太郎 (2022年10月16日(日))