一首評〈第145回〉

楠誓英 「棺の跡」/『青昏抄』

水槽に一匹残つた魚のやうに列車の窓に青年が寄る

静かな歌である。水槽、魚、列車、青年のサ行音の繰り返しだろうか。この歌はひんやりとした静寂をはらんでいる。

 先日行った水族館には上部が野外にひらかれている水槽があって、その日は大雨だったので、水面を抜けて落ちてきた雨が水草や魚をふるわせていた。

 水槽は魚にとっても冷たいのだろうか。真偽のほどは分からないが、魚には痛覚がないという話を聞いたことがある。魚といえば、「魚の目」は目の虚ろな様子の喩えとして用いられているのをたまに目にする。この歌において水槽に一匹取り残されている魚もまた、表情がなく、他に誰もいない静かな水槽のなかでただ水の揺れる音を聞きながら、無意識のうちに硝子の壁に寄っていっている。

 青年の乗っている列車には他に乗客がいるかもしれない。しかし、彼にとってはもはや、実際に乗客がいてもいなくても同じなのだ。寂しさを抱える青年が列車の窓に寄り、頬でその冷たさを感じた時、水槽の硝子に寄っている一匹の魚とオーバーラップする。その瞬間、青年の孤独感・不安感・空虚感が、冷ややかな触覚のイメージを介して鮮明に浮かび上がってくる。

 水槽と違って列車は動き続けている。あるのは列車の揺れる音だけで、そばには誰もいない。青年はそっと窓に身体をあずけ、行き先の分からない列車に運ばれてゆく。

松尾唯花 (2015年7月16日(木))