一首評〈第137回〉

山階基 「パラソルを抜けたら」/『はならび(4号)』

会ひたいが何にが何んでも会ひたいになつたあたりの折り目をのばす

この歌の面白いところは、心情が物体のように表現されているところ、それを静かに扱う主体が見えるところである。

主体の心が一枚の紙だったとして、「会ひたい」という気持ちから「何にが何んでも会ひたい」に変わったとき、紙はぐしゃぐしゃに折れ曲がってしまうように思える。
「会ひたい」のときには紙に傷や皺はつかず、気持ちはゆっくりとインクの染みのように滲む。ふと相手を思うような、主体の中で完結する欲求であろう。

そこから変化した「何にが何んでも会ひたい」は、相手の事情や予定を差し置いででも自分が会いたいのだ、という暴力に似た感情を宿している。
この強い気持ちは、この歌では相手に向かうことなしに、主体の心の中の内側へ、折り目へと凝縮されてしまう。

そんな状態にあることを、主体はどこかで嫌がっていて、心の乱れを宥めている。
結局ここで、主体が相手に「会ひた」さを伝えたかどうかは分からない。変化した気持ちを落ち着かせるところでこの歌は終わる。
そして時間が経てば、また紙は折り目だらけになり、途方もなく主体はその折り目を伸ばし続けるのだろう。「会ひたい」相手を思うことが、自分の内側への接近を何度も何度も深めてしまう。その行為の連続性が、「な」の畳み掛けるようなリズムによって響いてくる。

榊原尚子 (2014年8月1日(金))