一首評〈第138回〉

大森静佳 (「秋とあなたのゆびへ」/『手のひらを燃やす』)

これでいい 港に白い舟くずれ誰かが私になる秋の朝

「誰かが私になる」ことを「これでいい」のだとしている。そのとき、港では白い舟がくずれている。くずれ、をひらがなに開いていることも一因なのか、舟のくずれは輪郭がどろどろと溶けていく、時空間の歪みのように感じられる。(白い舟が朽ちるのであれば、それは時間の経過であり、時とともに私が変化していくことへの肯定の歌ともとれるだろうが)このような情景の中で誰かが私になるということは言葉の通り、別個の誰かという存在が私の存在へ取って代わり私の存在が喪失してしまうことを意味するだろう。

 イ母音中心で厳かにつぶやくような上の句から、ア母音へ開いている下の句への展開もあざやかだ。しだいに冷えこみを強める秋の朝に、私になりかわった誰かの目覚めがある。

 注目したい点は掲出歌の発話だ。舟がくずれることと誰かが私になることは同時に観測されて肯定されている。歌の発話者と歌の中に言われる私とがねじれているのである。このねじれにより、発話は神的視点からののつぶやきへと昇華される。神による肯定とは運命に他ならない。すると、歌の発話者と同一である歌の中の私による、私の喪失の肯定は諦観の意味を帯びてくる。

 確かに、人間の存在は時空間的に普遍のものではなく、唯一絶対とも言いがたい。しかし、世界の認識の中心である自分は自分自身にとって代替え可能なのだろうか? 他でもない私の存在が喪失することを歌う苛烈さに、この歌を読むたびに圧倒される。

牛尾響 (2014年8月21日(木))