一首評〈第121回〉

俵万智『サラダ記念日』

「西友」の看板だけが明るくて試験監督している窓辺

 つむじばかりが並び、鉛筆を走らせる音、そして時折聞こえる吐息。ずっと見ていると、次第に風景の強弱が消えてゆき、のっぺりとした風景に変わってゆく。そして、突然「西友」の看板がはっきりと立ち上がった。

なぜ起こるのかはわからないが、よく起こる出来事を歌った歌である。一度一部分が目立ち始めると、焦点をずらすことが難しい。試験時間という長い――生徒にとっては短いのかもしれないが――ときに、手持ち無沙汰な先生が気づいたことである。

この意味の取りやすい歌の面白さは、試験時間という時間の幅である。試験時間中の、いくらかの時間、主体は「西友」の看板に注目している。この、長いとも短いとも言えない時間のふくらみが良い。このことを楽しめるのは、歌がシンプルだからかもしれない。一つのふわりとした感覚を楽しむのに、邪魔するものは何もない。

また、この風景を思い浮かべたとき、他の物の個性は消え去る。生徒一人ひとり、後ろのロッカーからはみ出した鞄の紐など、「西友」の看板の代替となりうるものは沢山あるだろうが、そこで「西友」の看板に注目したことで、手前にある風景がかすみ、あるのに見えていないのと同じこととなる。いつもの教室にいながら、授業をしている間には味わえない感覚を味わっているのである。

私は、先生と言う主体をやはりまだ生徒の視点で見てしまう。先生は、試験中にこのような景色を見ているのかと感じた。もし5年後にこの歌を読んだらどのように感じるのだろうか。そのときが楽しみである。

中山靖子 (2013年1月5日(土))