川北天華 歌会の記録(2011年4月15日分
問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい
この歌は、当HPの前回の一首評で廣野翔一が取り上げた歌である。それを受けて自分も、この歌に対して少し考えを整理してみようと思ったので、二回連続同じ歌で恐縮ではあるが一首評で取り上げてみることにした。
本来は歌そのもののことだけについて評をするべきなのかもしれないが、京大短歌の歌会に出されたこの歌には、twitterを中心として多くの人に取り上げられ、賞賛され、そしてまたその現象に疑問を持ち批判する歌人も少なからず存在したという事実が存在する。この問題を無視することはできなかった。
微分について、天文学について、私自身深く理解しているとは言い難い。「夜空の青」そして、それを「微分する」という行為について、具体的に説明するのは難しい。Twitter上では、夜空の微分は天文学の基礎であり、『画像解析で夜空を色で微分すると、星だけを抽出することができる。つまり、「微かな星に目を凝らせ」という意味を、現代科学の言葉で言い換えている。』とされている。
「その表現が単に奇を衒ったものだと勘違いされていないか心配」とのことだが、それはあくまで、作者に聞いてみないとわからないことだ。奇を衒ったかどうか、天文学の基礎を踏まえて作られた歌かどうか、これは作者に聞いてみないとわからない。だが、それより重要なのは、私たちの目にどう映るかだ。そしてそれをどう分析するかだ。
仮に、この歌を批評しようとしたとする。「夜空の青を微分する」という行為の解釈につまる。天文学について調べる、あるいは天文学についての知識と照らし合わせることで、その意味がわかる。そういう歌の読み方もあるだろう。しかし、そのような分析や知識を読者に求める時点でこの歌が成功しているとは言えないのではないかと思うのだが、その点についてはどうだろうか。もちろん、ある一定の知識を持ってはじめてわかる歌もある。わからない語句は最低限調べて読む必要もある。しかし、歌の背景のストーリーをここまで深読みせざるを得ないのであれば、やはり短歌としての魅力が落ちてしまうのではないだろうか。
テストの問題でよく見る形式、そしてそれが短歌の定型にぴったり当てはまっている。さらに、夜空の青を微分せよという抽象的かつ壮大な行為、問いかけ。いかに天文学的・数学的な知識を動員してこの歌を鑑賞したとしても、結局はこのパロディ的な面白さの方に歌の読みが収束してしまう。Twitter上で述べられている「数学の力で青を消し去りたい、青と街の明りに隠された星を見たい」という「理系少年の夢」読みは、この歌をもとに作ることのできるストーリーとしては適当だが、この歌の解釈としては無理がある。作者にその意図があったとしても、この歌では、その「想い」というものを表現しきれていない。それはやはりこの歌が、テストの問題文のような文章を定型に当てはめて「提示」しているだけだからであろう。連作にすることによってそれをカバーすることも不可能ではないが、少なくともこの「提示」の形式では、「問題文や形式の面白さ」を第一に主張している歌にしか見えない。
次に問題となるのが、この「問題文の面白さ」である。天文学について、数学について知識を動員して読まなければ、多くの人が注目するのはこの点だろう。
「夜空の青」という自然物(というと語弊があるかもしれないが)に対して、「微分」という、本来数式に対して用いられる行為を働きかける。(廣野翔一はこれを「夜空がある一定の段階を踏んで青から黒になるという過程の知識の有無を公式に見立てて問いかけている」としているが)この抽象的かつ壮大な行為は、たとえその意味を具体的に理解しなくても読者に面白みを感じさせる。そして、それが短歌の定型にあてはまっている。極めつけには、「街の明りは無視してもよい」というテストの問題文でよくある「~ただし同じ記号を二度用いてもよい」のような条件を、天体観測における街の明りから着想して付け加え、よりユーモラスに仕立て上げている。
このようなユーモアに短歌の面白みを感じる人、または、日頃短歌に触れていない人にとってこの歌は間違いなく新鮮で秀逸なものに映るだろう。それがこの歌の今回のようなネット上での人気につながったと考えていいだろう。
だが、そのことを快く思わない歌人も多く存在する。この歌のこの人気と注目度が面白くない。自分たちの歌、あるいは、自分たちの大好きな歌ではなく、このようにパロディや理系の専門的知識に寄りかかった歌が評価される、それが歯がゆい。
そんなふうに思っている歌人もいるだろう。もっと短歌のことを勉強すれば、このような歌ではなくもっと好きになれる歌がある。たしかに、そう思うのも無理はない。
私は先ほど述べたように、専門的知識を動員しなければ読めない点、あるいは、定型に当てはめた「問題文の提示」という形式によって安易にパロディ的なおもしろさに収束してしまう点、これらによってこの歌を面白いと感じることができない。だが、短歌を始める前、初めて間もない自分であれば、この歌を間違いなく採っただろう。だから、この歌が多くの人に支持されることは、受け入れられる。それが多くの人の短歌の入り口になればいい。短歌を面白いと思うきっかけになればいい。だが、その一方で、自分たちは自分たちで、この歌をすんなり通してしまわない心構え、問題点を見つける目線、それから、批判するだけでなく、この歌を賞賛するに値する新たな批評を見出す可能性を捨てないことも、また私たちに必要なのではないだろうか。そして、それでも不満があるのなら、自分たちはどうしたいのかということを考えていくべきだ。自分たちの歌こそ、歌人だけでなく、一般の人にも多く取り上げられ、賞賛されるべきだと思うのか。TwitterでたくさんRTされたいか。それならば、そのような歌を作っていく方向に切り替えればいい。そうでないなら、今までどおりやっていけばいい。
小林朗人 (2013年8月3日(土))