一首評〈第119回〉

築地正子『鷺の書』

翔ぶ鳥はふりかへらねど廃船は過去の時間を載せて傾く

 鮮やかな2つのテーゼが、接続助詞「ど」の、さり気なくも絶妙のバランス感で繋がれている。

 翔ぶ鳥は振り返らない。
 人間は振り返る。振り返るためには、目指す方向が定まっているという前提が必要だ。歩いて進んでいる方向、遠くを見据える視線の方向、そして、未来。人が生きてゆく決して逆流しない時間の、今ここより先の方向が未来だ。未来を目指して生きる私たちは、それゆえにしばしば、行く手と逆の方に向き直し、来し方を振り返らずにはいられない。
 けれども鳥は、人間ほどには、ゆくべき方向に縛られない。重力に逆らい全方位を目指すことのできる鳥は、だから振り返ることもしないのだ。翔んでいる鳥は、一瞬ごとにあたらしく行くべき方向を見定める。瞬時にして〈目指し直す〉自由を、常に持っているのだ。私たちの不自由さの比ではない。時間についてもおそらく同じで、振り返ることはないのだろう。

 翼を持たない人間は、それでも、身体能力の限界を超えたところまでも進もうとする。船はより遠くを目指すための道具だ。船に乗り込んだ人間は、乗る前よりずっと遠くを見据え、その分だけさらに遥かな距離と時間を振り返ることになる。ひとたび船が朽ちれば、船の上で目指しまた振り返りしたその営みさえも、すべてが過去になってしまう。
 けれども、人が去った後に残された船は、すでに過ぎ去ったはずの時間を、戴いているという。時間に質量はないし、過去の時間はほんとうは私たちの中にしかない。しかし、みずからの過去の営みを振り返り、思い返す眼差しこそが、船の上に見えない時間を降り積もらせる。かつて乗り込んだ人々の物理的な重さによってよりも、見えない時間の堆積によってこそ、もう誰もいなくなった船は「傾く」のだ。

 生きている限り振り返ることをやめられない人間は、さびしい。でも、鳥は振り返らない代わりに、何者にも時間を与えはしない。もうどこへも行けない船に時間を与え、傾かせてしまうまでの力は、さびしいけれど尊い。私たちのその力は、鳥には決して持ち得ないものなのだ。

 朽ちて傾いた船に翼を休める鳥。この船に辿り着くまでも、これから先も、鳥は決して振り返りはしないのだろう。今にも鳥は船を翔び立つ。人である私たちはそれを見守りながら、またどうしようもなく、船の上へと時間を降り積もらせるのだ。

※引用は『築地正子全歌集』(砂子屋書房)に拠った。なお、佐佐木幸綱による巻末の解説では、掲出歌の上句が「翔ぶ鳥はふりはらへねど」と引用されているが、ここでは本文に準拠した。

笠木拓 (2012年7月24日(火))