一首評〈第112回〉

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

卵立てと卵の息が合っているしあわせってそんなものかも知れない

しあわせって、なんだろう。
不幸でなければしあわせ、というわけではない。
幸福とも、違う気がする。

杉崎恒夫の歌集『食卓の音楽』『パン屋のパンセ』を読んで、卵を題材とした生を見つめる歌が印象的であった。幾つかを挙げてみる。

たちまちに半熟卵の黄身ながれ詩はザンコクをよろこべるなり (『パン屋のパンセ』)
偶然にわれに飲まれるハメとなる無精卵とて不遇の卵 (『食卓の音楽』)

考えてみると食卓にのぼる卵とは、どこまでも不遇である。そもそも大部分が命を持たない無精卵である。それがときには茹でられて念入りに「命」を絶たれ、殻を割られ、匙で突かれ、最後には噛みちぎられてしまう。

よい方へはころばぬ予感 匙の背にこつこつと割るゆで卵 (『食卓の音楽』)

卵立てに卵がぴたりとおさまっているというのは、(卵立ては我が家にはないが)作者にとってありふれた日常の光景なのであろう。そのように「しあわせ」はとても身近でありながら、際どいところでしか成立せず、危うく、儚い。

バゲットの歌も、作者の抱いているテーマを象徴するものであろう。

バゲットの長いふくろに描かれしエッフェル塔を真っ直ぐに抱く
バゲットを一本抱いて帰るみちバゲットはほとんど祈りにちかい
晩年の胸に抱くにふさわしいバゲットはきっと乾いた花束 (『パン屋のパンセ』)

杉崎恒夫作品には、死やかなしみの気配が漂っている。しかしそのようなテーマを受け入れながらも諦めたり絶望したりすることはなく、むしろ根底には明るさがあるように感じられる。そのような作者の姿勢を、歌を作り始めた若輩者としては見習っていきたい。

三潴忠典 (2012年3月6日(火))