一首評〈第103回〉

吉川宏志「塔」2011年5月号

黒竜江アムールに飛び立ちゆかむ白鳥を思えり放射線をよぎりて

アムール川(Амур 、アムール、黒竜江)はユーラシア大陸北東部を流れる川であり、中流部は中国とロシアの境界になっている。全長4444km、流域面積は205万平方kmを越える大河川である。この川は栄養が豊富であり、サケをはじめとした多くの魚が取れることから、漁業が盛んな場所であった。いつだったか、アムール川でオオカミウオが取れた、というニュースを見たことがある。
しかし2005年11月13日、中国吉林省吉林市で石油化学工場の爆発事故が発生。これにより有害なベンゼン化合物約100万トンがアムール川の支流へと流入、この有害物質は事故発生の約2週間後にはアムール川へと到達したといわれる。ベンゼン化合物が与えるアムール川の魚類、川底植物、生態系への影響が懸念されていたところ、2月には腫瘍のある魚が見つかってしまうこととなる。また、2005年12月10日には、ハバロフスクにおいてアムール川での淡水魚の捕獲が全面的に禁止されるに至った。この漁業禁止は2006年3月10日付で一応解禁はされたが、魚の安全性は保障されておらず、魚から依然として有害物質が検出されるとして、引き続きハバロフスク住民には「食べないように」との呼びかけが行われたという。
それとは別に、中国の環境保全を考えない経済発展により、近年は河川汚染が深刻であるという。

此処までは知識だ。しかし、これは対岸の灯では無かった。なかったのだ。例えば人災として水俣病等の公害問題については学校で学んだが、所詮私の生まれる30年以上前の話である。知識である。
2011年3月11日、そうではないものが起こった。大震災ではない。大津波でもない。福島第一原子力発電所炉心溶融・水素爆発事故である。人災を受けるのはまず人である。それはそうだ。自分に関することが何時だって最も大きな問題となる。しかし、だからこそ、その陰にかくれる者たちを、その声を、主張を、見逃してはならない。人の都合に翻弄されるヒト以外の動物を、殺処分になった者たちを、放射能汚染した生き物を、忘れてはならない。それらを無関心という名のゴミ箱へ、捨ててはならないのだ。それを第一に考えろ、とは言わない。視野の片隅でもいい。その犠牲の上にわれわれは現在進行形で立っているのである、という事実を認識することが必要なのだ。

何故、冒頭でこのようなことを述べたか。何故、技術論が大好きで、政治的、歴史的事柄が嫌いな私がこのようなことを語ったか。それは、これら人災と切り結ぶことなくして、この歌のほんとうの魅力は説明し得ないと感じたからである。

白鳥はシベリア、オホーツク海沿岸で繁殖し、越冬のため冬季は温暖な日本へとやってくる渡り鳥である。この歌の舞台は白鳥が冬を越え、またロシアへと飛び立ちゆくときであろう。福島から放たれた多くの放射性物質、その放射線をよぎりながらしかし、力強くオホーツク海沿岸、アムールを目指して飛ぶ白鳥。この「白鳥」、ルビは振られていないが、いま私は「ハクチョウ」と読みたい。「飛び立ちゆかむ白鳥を」のt音、i音の強い調子に、人災を越えて飛び立つしなやかな白鳥の姿を託したい、と強く思うのだ。(注 私は当初、そして今も短歌的本能から「しらとり」と読んでいる。三句目付近は一首の休憩ポイント、葛藤部分であり、「飛び立ちゆかむ」の力強い韻律を終えてのち「白鳥(しらとり)を思えり」という静かな句、そして「放射線をよぎりて」という強い調子に再突入する構造が、もっとも短歌の生理にあっていると思われる。しかし今、「ハクチョウ」と漢語で読みたい気持ちは本当である。)
さすが、と言うべき完成度の非常に高い一首であると思うが、特に「放射/線をよぎりて」という句跨りは最高である。むろん放射線、放射能への主体のマイナスの感情、皮肉を読み取ることができる。しかし一方で、人の作りだした放射線、その間を裂いて飛びゆく、生命のしなやかな力が表わされているようにも感じる。
黒竜江と白鳥の対比、放射線を実際によぎっていく句跨り、「ゆかむ」から微妙に醸し出される主体の感情。それをのちに「思えり」で掬いあげているのも成功しているのであろう。それ以前に倒置による文体効果も大きい。一読、忘れ得ぬ愛唱歌となった。

藪内亮輔 (2011年6月22日(水))