一首評〈第95回〉

福井和子「始まりはいつも」/「短歌」1999年11月号

突然に『もろ人こぞりて』鳴り出だしティッシュ受け取り損ねて歩く

あけましておめでとうございます。新年が始まりましたが、ちょっと去年の話をさせてください。
去年の12月、大学がキリスト教系の学校ということもあって興味本位で礼拝に行ってきた。
聖書の朗読や聖書劇などがあり興味深い内容だった。その中で『もろ人こぞりて』を合唱する機会があった。歌ってる最中には特に何も考えなかったが、後日このことを思い出した時、掲出歌の意味が急に理解できた。
掲出歌は1999年の角川短歌賞受賞作『始まりはいつも』の中の一首。この状況は街中なのだろうか。路上などで配っているポケットティッシュを突然音楽が鳴ってびっくりして受け取り損ねたというそこまで珍しくない状況を詠んだものである。僕も街中で歩いていたら突然弾き語りが始まったりして驚くことがある。
ただ、この歌のキーポイントはそういった状況だけではない。その時に流れる歌が『もろ人こぞりて』であるということが重要である。
この『もろ人こぞりて』という歌は賛美歌の一つである。歌詞の一部は以下に記した。

諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ 
久しく待ちにし 主は来ませり 
主は来ませり 主は、主は来ませり 
悪魔のひとやを 打ち砕きて 
捕虜(とりこ)をはなつと 主は来ませり 
主は来ませり 主は、主は来ませり 
この世の闇路(やみじ)を 照らしたもう 
妙なる光の 主は来ませり 
主は来ませり 主は、主は来ませり 
日本基督教団讃美歌委員会編 「讃美歌」(1954年刊)112番に準拠。

前述したが、この歌詞を読んだ後に僕は掲出歌の意味がわかったような気がした。作中主体は突然音楽が流れたことに驚いたのではなく、この曲が突然流れたことに驚いたのではないか。それも突然この曲が流れたということだけでなく、歌詞にこめられている「聖なるもの」を感じ取って動揺したのではないか。それを裏付けるように同じ連作の中に次の様な一首がある。

「主は来ませり主は来ませり」と地下街を追いたてらるる神持たぬ身も

きっと作中主体は(ついでに言うなら僕も)キリスト教徒ではないだろう。だが地下街で「主は来ませり主は来ませり」と追い立てられている。これはもう「聖なるもの」への畏怖であろう。そして、この畏怖は宗教というものを超えた次元で形成されている。

廣野翔一 (2011年1月1日(土))