一首評〈第86回〉

吉田隼人 「二十三人」/『早稲田短歌』三十九号

立ちならぶこころの病気ビルはまだどの窓も灯をともしてゐたり

 昼と夜の境目を明示することなんて、いつだってどうしたってできない。ひとの場合ならなおさらのことそうで、正常と異常・此岸と彼岸、そんな線引きにどれほどの意味があるだろうか。けれども、そんな線引きが効力を持ってしまうことの、往々にしてあるのが実際だ。

 いまどき精神疾患は珍しくもないし、一見して忌むべき悪者でもなくなった。提出歌にあるような、平仮名書きの「こころの病気」というような呼び方が浸透する。そのことは、いままで行き場をなくしていた、少なくない数の不安の受け皿になった。
 だが一方で、果たして精神疾患に関する知識的な基盤がどれだけ共有されているのか。「こころの病気」という呼び方はひとり歩きして、行き過ぎたキャンペーンになってしまってはいないだろうか。現代に生きる私たちは、自身のこころのありように病名がつけられてしまうことを、良くも悪くもほとんど避けられなくなってしまった。
 こころの病気は立ちならぶ。医学(ときにある種のブラックボックスである)によるそうした線引きの持つ効力に、いつしか安住している私たちの街角に。

 しかし提出歌を、そうした批判精神だけの歌と捉えるのは早計に思える。

 主体の前に立つビルは、一首の中では、「こころの病気」のありようと、二重写しになっている。比喩の発想自体はごく単純だ。単純なのだが、この比喩は作者の真摯なまなざしに裏づけられている。下句から見て取れる、その確かさが一首をつよく支えているのだと、私は受け取りたい。

 提出歌の時間帯は日の暮れてしばらくした後、くらいだろうか。主体の前にあるビルは、灯をともしている。昼から夜に移り変わってしまったはずの世界に、まだ。いくつも並ぶ、そのどの窓にも。

 たとえば「うつ」という名前のついた部屋に急に放りこまれたとして、だけど私は一貫して私であることに、違いなどあるはずもない。私が此岸から彼岸へと移り、あるいはその橋の上を行き来したとして、けれどもそのどの瞬間も同じ私であるということ。断絶などなくて地続きなのだ、生きている限り。

 時間の境目を越えてなお息づいている様を、一見無機質な外殻のビルに見て取る。「まだ」「ゐたり」という時間の幅の丁寧な描写、「どの窓も」という把握のこまやかさ。それがこの歌の、まなざしの確かさなのだと思う。したたかさなのだと思う。

 この歌を前にして私は、胸に手を当ててみたのち、けれども不思議とすこし前を向けたような気がした。

笠木拓 (2010年4月1日(木))