下澤静香 「首筋」/『京大短歌』16号
モルディヴの形象をなぞる地図の上雨はそのまま止まないらしい
作中主体は、モルディヴ(インド洋沖の島国)の形象を地図の上でなぞっている。それが何故なのかは判らないが、とにかく漢語である“形象”によってきっちり定まっている国の境界線の感じがよく出ている。
下句では、雨。今まで降っていた雨は、これからも降り続けるらしい。さて、ここでの“雨”とは、(無論実景ではあるのだろうが)“もやもやしたもの”の喩ではないだろうか。
人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天 (永田紅『日輪』)
例えばこの歌では、「馴れぬ齢を生きている手さぐり感」を「曇天のなかを飛んでいくさま」で表している。上述の“雨”はこの歌における“曇天”と同じニュアンスの比喩であるように見える。
もやもやとしてはっきりととらえることができない気分。そこから抜け出そうとする作中主体は、ひとまずモルディヴの境界線をなぞる。そしてきっちりと定まる象をとらえようとする。しかしその実験は失敗に終わったのであろう。“私の雨”は止まないらしいのだ。
また、国境というものはそこまではっきりと定まっているものでもない。海岸線は長い時間をかけて移動するし、短いスパンでは潮の満ち引きがある。領土争いによって象が変わることもあろうし、そもそも領空はどこまでか、領海はどこまでか、など考え始めるときりがない。作中主体はそれに気付いたのかもしれない。そして結局もやもやとした雨は止まないらしい。
さて、この歌においては“モルディヴ”という固有名詞と“形象”という語の組み合わせが良い。例えば「島国の形象をなぞる・・・」などとしてみれば分かるが、“形象” という漢語は、具体的な、硬質な、正確な、きっちりとした単語との相性がいいらしい。他にも、『モルディヴの象をなぞる…』などとすれば、元の迫力がなくなる。上句のきっちり感も弱まる。
この歌の魅力のひとつは、上句のきっちり感・きっちりさを求める心情と、それに反する下句のもやもや感にある。こまかいところであるが、割と強力に下句は “もやもや”していて、①単に「今雨が降っている」のではなくて「今も降っているし、これからも降り続ける」ところ。②きっちりと「止まない」と決まっているのではなくて、これすらも「らしい」とあいまいなところ、が挙げられる。
また、上句では“モルディヴ”という固有名詞と“形象”という漢語、地図も漢語であるし、こちらも強力に“きっちり”している。
一見しれっと詠んでいるようにみえるが、上句・下句ともにねばり強く“きっちりさ・もやもやさ”を表現できているのである。
最後に、上句の字余りについて。「形象」を「象」にすれば分かるが、これを定型にしてしまうと淡くなりすぎる。別の言葉で言うと、のどごしが良すぎる。 “形象をなぞる”という行為の本気さというか、作中主体がその行為にかけている強い気持ちがなくなってしまうのである。「形象をなぞる」という字余りの部分にある“韻律の山”というか、(或るひとの言を借りると)“波”が、静かに、しかし力強く一首の裏にある心情を押し出しているのである。
ちなみにこの歌は『京大短歌16号』の『首筋』からとってきた。手前味噌だと思われるかもしれないが、純粋にこの歌についての一首評を書きたくなったのだから許していただきたい。
この連作の他の歌では
震えてる空の色さえあなたには可視光線だと片付けられる (『首筋』)
が良かった。空の“震え”に気付く鋭い感受性、超感覚性。また、空の(色の?)“震え”について聞きたい“私”と、“あなた”の回答(=可視光線)のちぐはぐさ。どこかすれ違っている、うまくかみ合わないふたりの関係がみえてくるようだ。
藪内亮輔 (2010年5月1日(土))