一首評〈第77回〉

河野裕子 『森のやうに獣のやうに』

くすの木の皮はがしつつ君を待つこのやさしさも過ぎて思はむ

待ってもらうよりも待つほうが断然好きだ。掲出歌は待ち合わせを詠った歌として、とても魅力的である。先日、「近づかば終わらむ思慕よ柳の葉引っ張りながらバスを待ちいる」(永田紅『日輪』)という歌を読み、偶然とはいえその類似にはっとさせられた。

掲出歌では、待ち合わせをしている現在が作者にとってはすでに思い出のなかの場面であったかのように切々と詠まれている。「羞しさ」は、自分に会うためだけにやって来る男性がいることに対する心地良いくすぐったさ、というほどの意味ととりたい。時を経てもう少し大人になってから、この初々しい心の昂ぶりをふと懐かしく思い出すときが来るのだろう。恋愛の只中にありながらこんなふうに思ってしまう寂しさが、痛いほどによく分かる。その頃にはもう二人は別れてしまっているだろう、という予感があるのかもしれない。

一方、永田紅の歌は、恋人への思慕は一緒にいない時にこそ募るものだとして、「待つ」時間をいとおしむ。バスに恋人が乗っているか、あるいは自分がバスに乗って逢いに行くかのどちらかであろう。

ともに、植物を登場させることによって一首全体にすがすがしい空気が満ち、かつ恋人を待つときの繊細で複雑な感情が的確に詠まれている。待ち合わせのとき、自分でも持て余してしまうほどにあふれる嬉しさや期待をひとり静かに抑えようとしてか、知らず知らずのうちに「くすの木の皮をはがし」たり「柳の葉」を「引っ張」ったりしてしまうのだ。自分の身体の代わりに植物を通じての自傷行為のようにも思える。好きな人と逢うからといって、傍目にも分かるほどに嬉しそうにすることへの躊躇。うつむき加減に、浮足立つ気持ちを鎮めようとしている姿が思い浮かぶ。自分が若く、女性であり、これから恋人と逢うのだという幸福な現実を、大げさに詠いあげるのではなく、不意に身を捩って逃れたくなる気持ち、気恥かしさのほうに重心を置いて細やかに詠む感性に好感が持てる。

大森静佳 (2009年8月1日(土))