我妻俊樹 「水の泡たち」
時計屋に泥棒がいる明け方の海岸道をゆれていくバス
「ことばの意味内容と響き、それからリズムがあいまって、読者を想像の世界に誘うこと。これが詩の魅力です。」と坂井修一は述べ、その例として、白秋の「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」を挙げている(「二十一世紀の短歌入門<1>」/角川『短歌』5月号)。
「いっぽうで、映像と音楽は、なにもかもを私たちに見せてしまう、聞かせてしまう。(中略)すぐれた映像技術は、あたらしい芸術の可能性を生むものではありますが、多くの場合、私たちのひとりひとりが想像のつばさを広げることを許さないのではないかと思います。」
「想像のつばさ」というフレーズに託された、ことばへの信頼の力強さに、違和をおぼえる。省みるに、短歌は、ことばはいつも僕を不安にさせる。
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我妻俊樹は、主にインターネットで、恐怖譚を、短歌や掌編のかたちで発表している作者である。
「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている 「水の泡たち」
見ないようにしていたものを見てしまう指のすきまに睫毛がふれて
雨雲をうつしつづける手鏡はきみが受けとるまで濡れていく
これらの歌は、なるほど読者の想像力をかきたてるが、けっしてその世界の手触りは、心地よいものではない。読者は手探りに物語を補い、不安の解消を試みるが、ついにそれは果たされない。
想像力は不安の影である。たとえば墓場のような、暗闇と静寂につつまれた環境におかれ、感覚を遮断されると、ひとは本能的に恐怖をおぼえる。わずかな光にも瞳孔をひらき、葉擦れの音にも耳を澄ませ、それでも恐怖が去らないとき、幽霊があらわれる。
青空がくらくて途にまよいそう 街 沢山の手のひらが飛ぶ 「インフェル野」
坂井修一の力強い――入門者を勇気づける――声は、不安の裏返しであるように思われてならない。青空がくらいということに気づかないまま、つばさを広げてしまってよいのか。ひとは、つかのまの安心を得たいから、「映像や音楽」に心身を浸そうとするのであり、その「安心」をうたがう者が、まよいながらも、地に足をつけて、歩くのではないか。
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「短歌では、『ことば』というきわめて身近にあるものを扱いながら、人間のおもしろさや美しさをさぐり出すことができます。(中略)こんな小さなものによって、人生の醍醐味をさぐり、世界の美を味わうことができるのですから。」
このようなラディカリズムを、僕は信じない。白秋は、俊子との行方の知れぬ恋の不安に立ちすくみ、ただ歌わずにはいられなかったのではなかったか。
土岐友浩 (2008年6月1日(日))