一首評〈第49回〉

塚本邦雄 蒼鬱境

遠き萩それよりとほき空蝉のまみ 文學の餘白と知れど

塚本の第八歌集は、収録歌数わずか三〇首、発行部数は私家版を除いて二〇〇部、跋、後書きのたぐいもないという、序数歌集のなかでは特異な位置を占める。掲出歌はその劈頭をかざる。

石田波郷は「俳句は文学でない」と言い、(ニュアンスはまったく異なるが)塚本は「(短歌は)文学の余白」だと言う。塚本が「韻文」といい「詩歌」というときはからなず、晩夏あるいは秋のひのくれのイメージがともなう。

 韻文のきのふほろびて麥熟るる光にわれはさらさるるかな 『星餐圖』
 すでにして詩歌黄昏くわうこんくれなゐのかりがねぞわがこころをわたる 『青き菊の主題』

『星餐圖』『蒼鬱境』の時期に、塚本は初の評論集『夕暮の諧調』、初の小説集『紺青のわかれ』を発表、これ以後、散文に関心を移すと同時に、歌の世界には、短歌の滅びの予感が影をおとしだす。その予感はやがて、次のような境地にまで至る。
 歌にほろぶる 否否石榴鮮紅の芽吹めぶきわれならば歌をほろぼす 『豹變』

塚本は、革新と伝統をひとりで担う、というポーズを歌の内外でとるようになり、その代償のように、モチーフに偽悪的なものが多くなる。

歌を殺す。すなわちそれは、歌をよみがえらせんとする反魂の情熱のことであった。

(#なお一首は、芭蕉の句「唐黍たうきび軒端のきばはりの取りちがへ」をモチーフにしているかもしれない。源氏物語の「空蝉」とその継娘、「軒端の荻」が、とりちがえられて「萩」に変容する。そのような俳諧的機知を念頭において読むこともできよう。)

下里友浩 (2006年5月15日(月))