一首評〈第47回〉

塚本邦雄 感幻樂

固きカラーに擦れし咽喉輪のくれなゐのさらばとは永久とはに男のことば

塚本とは、死後にしか見えたことがない。
昨年二〇〇五年の六月九日に、塚本は八十四歳で他界した。僕は場違いを承知で葬儀の場へ足を運んだ。その日は月曜日、大阪の空はうすく曇っていてた。
福島泰樹氏が、弔辞の最後に絶唱したのが、掲出歌である。

弔辞のなかで、福島氏は、「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ/『日本人霊歌』」を引きながら、縄跳びという「短歌定型」の桎梏から逃れられない歌人の宿命を述べた。

「固きカラー」も疑いなく、定型詩の枷の謂いであろう。その「咽喉輪」の軛を肯定するにも、また、「くれなゐ」という詩語によるほかなかった。詩は詩であることによってしか救われないのだろう。

塚本も福島氏も、男のダンディズムなど信じてはいまい。あるのはただ、歌人としてのダンディズム。「さらば」とは、なにに対して向けられた言葉だったのか。別れを告げることなど、はたして人間にできるのだろうか?

「好きであるがゆえに歌に疲れることが、誰にでもあると思う。」とは、2005/10/20付の一首評者、光森裕樹会員のいみじき言葉だが、短歌を呪うほどに愛さなければならなかった塚本の想いの深さを、僕はただ想像するのみである。

掲出歌は、塚本の最高傑作との評価もおおい、第六歌集の巻頭歌。

下里友浩 (2006年4月29日(土))