塚本邦雄 水銀伝説
燻製卵はるけき火事の香にみちて母がわれ生みたること恕す
四歌集の巻頭歌。この一首については、岡井隆氏が「辺境よりの注釈 塚本邦雄ノート」にて詳細な分析をほどこしている。
簡単にまとめると、「燻製卵」とはキャビアのことで、
《魚の産卵》→《めのまえの燻製卵》
《母の出産》→《現在のわれ》
が比較的明快に、並置されている。ここで作者の意識のなかで、「火事は偶発事故、鮮烈なエネルギーの消費、血を連想させる赤として《出産》と比べられる」。
ここで僕が疑問におもうのは、魚卵が燻製にされるのは、時間軸でいえば、産卵のあとのことだ。ならば、「はるけき火事」とは、かならずしも出産を指しているとはかぎらないのではないだろうか?
(#「装飾楽句」の冒頭の、「火のごとき孤独」という修辞を思い起こされたい。)
そもそもこの歌、「われ生みたること恕す」すなわち、「生への呪い」が裏返しのモチーフだが、反倫理的なフィールを読者が抱くのは、ひとえに「われを生んだ主体」として「母」が一首のなかにあえて明示されているからに他ならない。つまり、「出産」はアクシデントとしては捉えられていないように想われるのである。
塚本にとっては、生まれ、火のように生き、そして生まなければならない、その世界のありようこそが、呪うべき対象であった。
引用歌からは、「母」はすでに身ぢかな存在ではないように感じられるが、実際、塚本の母は第一歌集を上梓する前に亡くなっている。塚本は母に挽歌百首を捧げ、長い間それを封印していたという。
下里友浩 (2006年4月15日(土))