一首評〈第58回〉

斉藤斎藤 『渡辺のわたし』

くらくなる紐ひっぱりながら横たわりながらねむれますよう起きれますよう

『渡辺のわたし』を読んでいると、斉藤斎藤は歌のなかでしょっちゅう寝たり起きたりしていておかしい。それは、同書のテーマのひとつ、「わたしの連続性」にかかわる問題だとおもうが、斉藤斎藤だけではなく「歌葉」の歌人たちの多くが、「ねむること/おきること」にかかわる歌を発表してきたのを、興味ぶかく読んでいる。

 ねておきて「ねてていいよ」と声がしてねたふりをする 鉄橋をいく  宇都宮敦

 寝返って頭を打って目覚めるとここは熱帯夜の終電だ  永井祐

 愛が趣味になったら愛は死ぬね…テーブル拭いてテーブルで寝る  雪舟えま

 かわかしてみてからはがすかわかしたかさぶたまぶたこゆびではがす  増田静

なぜ「ねむること/おきること」が詠われるのか。直感的には、歴史から断絶した「私」を物語りはじめる、そのてつづきのメタファー、あるいはそれと表裏一体の、自意識からの解放願望のあらわれと感じられる。けれど、ここに挙げた歌をみれば判るように、眠りと目覚めのモチーフの選びとられ方は、作者ごとの屈託があり、ここでは踏み入らないが、さらに読みこまなければ意味がないだろう。

(#ただ、これらの歌のなかで、掲出歌の、布団上すれすれまで垂らされた「くらくなる紐」、そして「起きれますよう」という祈りの不気味さは、やはり異彩をはなつ。)

さて、第5回歌葉新人賞候補作では、眠りと目覚めをストレートに詠んだ歌はなくなった。

 町のある砂漠を午后の各駅の窓から見ててやがて目ざめた  我妻俊樹

 リピートにした一曲が繰り返し始まる度に少し目覚める  中田有里

 なんとなく別の眼鏡に掛けかえて世界は細い銀色の雨  佐原みつる

 満ち足りてねむる車掌は大好きな灯台前の駅を飛ばした  東郷真波

我妻においては「目ざめ」の前に広がる世界が、中田においては覚醒時に「少し」目覚めるという意識のゆらぎが、詠われている。佐原においては、「別の眼鏡」は目覚めのメタファーとも読めよう。東郷においては、「満ち足りた」ねむりという、興味ぶかいモチーフが扱われているが、それは「車掌」という他者のものである。

本稿にはとくに結論をもうけていないので恐縮だが、誰もが寝不足を余儀なくされる現代、「睡眠」という観点から歌を考えるのも面白いかとおもい、紹介させていただいたしだい。

下里友浩 (2006年10月15日(日))