一首評〈第51回〉

塚本邦雄 されど遊星

あはれ知命の命知らざれば束の閒の秋銀箔のごとく滿ちたり

第十歌集の巻頭歌。「知命」は50歳のこと。孔子の「五十而知天命」の裏返しである。一種のことばあそび、塚本らしいフモールととるべきだろうか。通俗的な類想歌を一首挙げよう。

 夫人、人夫を愛してつひに棄てに來ぬ肝胆冴ゆる若狹きさらぎ  邦雄

では「束の間の」秋とは、どういう心境なのだろう。坂井修一氏による一首評書「塚本邦雄」は、以下のように解釈している。「悩む行為・思考する行為がわずかの時間解消し、美しい和歌文脈の中に溶解する。次の瞬間には、ふたたび現世的な『知命を知らない』悩みに引き戻されるというのに。」

つまり苦慮と一時の休息という文脈で「束の間」を読んでいるようだ。しかし、あまり理詰めに考えなくとも、「50歳を過ぎたいま、秋そのものがみじかく感じられる」という、よりシンプルな解釈も成り立つだろう。たとえば、51歳の秋に紫の上を亡くし、52歳で物語から姿を消した光源氏の胸中のように。

それにしても、「秋銀箔のごとく満ちたり」とは、おそらく鰯雲などの秋の雲の一瞬を捉えた喩と思われるが、なんと美しい心象風景に昇華されていることだろう。しかし塚本の美意識は、「命」を知らずと言い放ち、この境地にも安住しようとしない。あくまで秋の空高く浮かぼうとする雲を見上げている。

塚本自身の評価は判らないが、現在24ある塚本の序数歌集の巻頭歌のうち、随一の秀歌なのは疑いない。

下里友浩 (2006年5月29日(月))