西之原一貴 『京大短歌』 12号
手のひらの石けん小さくほぐれゆくまだ果たせずにいる約束は
浴室かとおもう。ぬれた石鹸を持ちつづけることは難しい。
しっかり掴もうとしてはいけない。かといって、無頓着でもいけない。石鹸の動きを予期しながら、常に、石鹸の行先に手をさしのべる。「手のひらの石けん」とは、そういう感覚である。
ところで、「小さくほぐれゆく」のは「石けん」だろうか、それとも、「約束」だろうか。私は、その両方として詠みたい。
「約束」は、果たされないものである。いや、正確に言えば、果たされる以前においてのみ、「約束」は生命を持つ。果たされた以後の「約束」は、過去完了として想起されるだけだ。
約束は、果たされることによって、その生命を失う。
約束が「約束」としての生命を持つとき、人は常に、その約束に意識を向けなければならない。それは、石鹸を持つときの、あの感覚に似ている。石鹸が手から滑り落ちそうになる瞬間、私は石鹸の動きに気づかされる。同じように、約束への忘却に気がつく刹那、私は、約束が今もなお生きていたのだと知らされるのである。
この歌の真意は、ここにあるのではないか。
この歌は、いわゆる嘆きの歌ではない。
あの約束がまだ生きているのだという気づき、それが微かなよろこびとして編み込まれているところに、この歌の繊細な響きがあるといえよう。
柴田悠 (2003年5月1日(木))