澤村斉美 『京大短歌』 13号
鳥を飼っているのはほんとう きみのいない時に放して運動させる
人に見せることのない自分というものは、誰しも持っているものだと思う。
対話するとき、人は持っているさまざまな顔の中から最も適切だと思われるものを引き出してみせる。
相手とのつきあいが深くなれば深くなるほど、見せる顔の数は増えてゆくだろう。
それでも、やはり見えないところ、見せられないところ、というものはある。
この歌に詠まれた「鳥」とは、そのような感情なのではないだろうか、と感じた。
独り、部屋にこもるときだけに放すことの出来る自分。
「きみ」がいないところでしか放せない「鳥」は、籠められたままでは死んでしまうであろう生き物である。
このことが伝えるのは、喩えられたものの生々しさ、そしてこの「鳥」が飼い主の意思から完全に切り離された存在であることだ。
閉じられた世界を詠んだ歌でありながら重苦しさがないのは、鳥と主体とのの接点が希薄であるところに不思議な浮遊感が生じるためだろう。
視線のように、静かだが強い力を持つ歌だと思った。
増田一穗 (2002年11月1日(金))