川野芽生『Lilith』
傘の骨は雪に触れたることなくて人身事故を言ふアナウンス
天候は雪、作中主体は駅におり傘を持っていて、もしかすると畳んだり開こうとしたりなど、傘に注意を向けている状態かもしれない。主体が、傘の骨が雪に触れたことがないという気づきを得たときに、ちょうど人身事故のアナウンスが流れてくる、という景を立てて読んだ。ここで作中主体の所在についてはそのほかに電車内や駅付近の屋外なども考えられると思うが、上句と下句について後述の読みが共有できれば、その所在に読みの幅が生じることは問題ないと考える。
この歌の構造として、上句と下句で内容に区切りを見ることができ、そのために、この歌に二物衝突的構造を読み取ることができるだろう。しかし、我々が所謂二物衝突の短歌を読むときに感じる構造とこの歌の構造は少し異なるように思える。
上句で提示される「傘の骨は雪に触れ」たことがないという事実は、広く人口に膾炙した普遍的概念というよりはむしろ作中主体の(突如とした)気付きに近いものであること、また、下句の「アナウンス」とは作中主体の外から予告なくもたらされるものであると読んだ。つまり、両者とも作中主体にとっては時間的観点において非遍在的で、瞬間的な事象提示であるということだ。そのため上句と下句は、それぞれの事象自体は必然的連関がなく独立していながらも、時空的には間をおかず同時に知覚した事象であり、そのために、上句に対する下句の唐突さを感じない。衝突の衝撃性をもたない二物衝突的な短歌、という読みごたえを与えてくるのではないだろうか。
一般的な二物衝突の面白さとは、突拍子もなく、関連ない2つの事象が提示されることで、読者の脳にそれらのあいだに何かしらの概念的なつながりを生み出すことができ、そしてそのつながりから立つ独特な景があることを楽しむというものであると私は考えている。
このことから衝突性をある程度和らげられた二物の衝突は、しばしばモチーフが近く読者にインパクトを与えづらいという批評を聞くこともあるが、この歌では以下に述べるようなただ2つのものを提示することにとどまらない提示があることでおもしろさが担保されている点に注目したい。
雪が触れるのはいつも傘の生地なりビニールの部分であり、骨は名の通り傘を支える部分ではあるが、雨雪にたえず晒される箇所ではない。
そのような傘と雪の関係を楽しんだ読者は、このあとに出てくる人身事故という単語を、雪と傘の接触関係を踏まえた上で捉えることになる。このとき人身事故が接触で起こることには勿論思い至るだろう。
さらに、人身事故をアナウンスで知る作中主体は、その人身事故とのあいだには直接の接触関係がない。つまりこの歌の中で、傘の骨が作中主体に、雪が人身事故に、そしてそれらを隔てるものとして傘の布地・ビニールとアナウンスが並置される。歌の中の単語として作中主体と布地・ビニールは登場しないが(作中主体の存在は短歌の内容を知覚している存在として一般的に意識されるだろうが)、景を支える位置関係の中でそれらが浮かび上がってくる部分に自分はおもしろさを見出す。
さらに注目できるのは、「触れたることなくて」だろう。この「たる」は完了の意味でとった。「傘の骨は雪に触れてしまったことがなくて」という意味だろう。この、出来事の「こと」化によって、傘の骨に雪が触れるという肯定型の出来事への意識が付与される。そのうえで、傘の骨が過去から今に至るまでに雪に触れたことがないという存続のニュアンスによって、「雪に触れる」という事象が経験の一種としてカウントされている感覚をもたらし、この感覚がつれてくる、何かを未経験であるという状態の、これまでの時間の経過をも見せる。
いっぽうで人身事故の事件性を際立たせるのは、その事件が事件つまり経過する時間の中で突発的に起こるという特徴だろう。上句で提示された時間の経過を利用して、下句での瞬間的な出来事の存在がきわだつ。
作中主体の知覚によって結びつけられた事象らが、世界の位置関係をわずかに、しかし鮮やかに、我々にも覗かせている。
津崎一加