歌会の記録:2000年8月25日~27日

歌会コメント

早稲田國學院京大短歌会合同合宿 参加者28名
2度目となる合同短歌会。京都宇治と三条を舞台に数少ない学生歌人との交流を楽しみ、親睦を深めました。

詠草

2000. 9/15 歌稿

01 月光は高きに去りて秋の日の花背峠のバス停を過ぐ  田中克尚

02 宅地抜けるカーブがゆるくなりゆけば母校の並木車窓に流る  片柳香織

03 十二単の扇がくれの横顔の白き胸鰭開きゐる鯉  森雅紀

04 湿布貼る箇所また増えて二十一世紀の夜空にB29の爆音  松島綾子

05 中堂の闇こそ深けれほとけとて何もなき今日を生のびること  水野ふみ

06 オーロラのうねりで飛び立つハト群に君は睫毛の翳を濃くする  杉美和

07 谷のテント場に電波は届かない無形の空をぼくらは見上ぐ  澤村斉美

08 小便の小僧の横に小便のもう出ぬのだがしまってよいか  森雅紀

09 球場は熱かりききみの前傾がひつじ雲まで届く気がした  澤村斉美

10 陽のいろが微風になじむ日の暮れの旅の金沢、もう帰ろうか  島田幸典

11 合歓の木に凭れて眠るにんげんの子供に合歓の葉陰は落ちぬ  棚木恒寿


[ひとこと評]

参加者7名。人数が少ないので、ひとり2首出そうということになりました。突然「2首」と言われてもみんな作品がさっと出てくるのはすごいです。みんながんばってるんやなあ。いきなり歌会最年長を体験することになった水野さん、森さん、お疲れ様でした。ありがとうございました。

01 「日の丸」という言葉をどうとらえますか?この一首からは、作者の日の丸に対する思いが読み取れないと思うのですが、むしろ日の丸に政治的な意味合いを読み取らない読み方ができるのではないでしょうか。私は、夏の終わりのあるもの悲しさを、旗を「蔵め櫃を閉じ」るという行為から感じました。「ひもじき」がいいのかなあ。「密かに」が一首を意味深にしているという意見もありました。

02 フルート奏者の構えを「ねらいすまして」としたところが言い得ていますね。演奏中の奏者について、そのねらった目の先に彼のプライベートな世界をふっともって来ているのがおもしろい。ただ、この破調をどうとらえたらよいのかが問題になり、解決しませんでした。「フルーティスト」までを一気に読ませて、「あなたは誰を好きなの」と落とす緊張感の緩みと、奏者の目の先に思いを馳せる「ふっ」とした感じを合わせているんじゃないかと私は考えたのですが。

03 作者、私です。問題になったのは、「どかどか」です。やはりこれは適切ではありませんね。熱さではなくて、歩く様子のほうが思い浮かんでしまう。「じんじん」にかえようかと思っています。ちなみに、岐阜では(澤村家では?)、厚着をして体が火照ってくることを「どかどかする」と言います。ほか、悔恨を放った後の高揚感といったところは、読んでいただけてよかったです。

04 灰の流れを見ることによって、「あ、ここに川がある」と気がついたのでしょうか。灰って、水面に灰汁のように浮いて見えますよね。どういうことだろう、と読みに戸惑う人が多かったのですが、それは「呼び出す」が分からなくしているのではないかということになりました。作者によれば、これは大河を頭の中で思い出すところ。だから「呼び出す」なんですね。  

05 読みが2通りありました。ひとつには、石垣にもたれて詩を口ずさんでいる(思い返している)、もうひとつは、詩作をしている、です。私は後者の読みをしました。上句の、背中に1個1個の石がごつごつあたる感触と、言葉をさぐりつつ詩を作り上げていく思考の仕方がうまく合っていると思ったからです。前者の読みが出るのもまた然りで、「一音」と言っているからには言葉や句ではないだろう、と考え込んでしまうわけです。「詩は」で、詩そのものに思いを広げていく終り方がいいと多くの人が感じたようです。

06 「坂上」は坂を登りきったところでしょう。そこにクレーンがある。私は、休日か昼休みかで動いていないクレーンだと思いました。空間がひろくとらえてある上に、クレーンがすっとのびている様子が空間をはりつめさせている。そこで少女の躍動感が際立つ。いい情景だなと思いました。ただ、はじめに大きい枠で空間を捉えて、急に少女という近いところへ視点が移ってきているので、読んだときは少し戸惑いました。

07 主な読みが2通り。ひとつは、ぱりっと乾いた衣服を身に着ける皮膚感覚を歌いたかった歌だという読み。もうひとつは、雨の続く日々、やっと乾いたものを着まわしていく虚しい日常を歌った歌だとする読みです。私は後者の読みをしました。作者によれば、これは前者の読みがあたっているそうです。初句の「何もない」をそれに続く句とどうつなげるかで、私は「むなしい」読みをしたのですが、「何もない」は動きそうですね。

08 作者、私です。気分の歌だと言われました。そうですね。「マンタの海を抱きとりに」あたりは自分でも気に入っているのですが、「ふたたびの夏」が思わせぶりすぎてわかりにくくしている、「たとえば」が気分を押し付けている、という意見に納得。最後の「行こ」には好き嫌いがありました。「舌ったらず」であるというのと、「思いついて誘っている感じが出ている」というのと。意外に私は好きです。

09 これは、自分がお腹にいたときの母親の体重、ということですよね。妊娠していてもほっそりとしていただろう母親の様子、何も産まずにいる自分に対する懐疑がストレートに表われていると思います。この作者が男の人だったらおもしろいですね、という意見も。女の人による作ならば、「産まない自分」を語る女性というのは結構パターン化しているから、言うなら別の言い方を工夫したらいいかもしれないという意見もありました。

10 はじめ、「感謝の嵐」って誰の何に対する感謝?と戸惑いましたが、水野さんの読みで氷解!コンビニの店員が去っていく客に言う「ありがとうございましたァ」って、あれですね。肉まんとピザまんどっちにしようか迷っていて、結局肉まんをやめてピザまんを選んだってことかな。そしてピザまん1個の客にも店員は善良なる声をかけてくれる。そういうときの妙な気持ちが表われていて、おもしろい歌でした。みな絶賛。

11 「静けさの」でいったん切れるんですね。詠嘆かな。一首まるごとが静けさであるような歌。「古いタオルで爪先を拭う」という行為自体が、あきらめのよう。渋い行為です。はじめは、それ以上に広がりがないなと思ったけれども、逆にいえば、「あきらめのあと」と「静けさ」で一首が統一されているわけで、その点がよいと考え直しました。

12 きっと図書館へ頻繁に行く人なのでしょう。行きはじめの頃、もしくは書架が入って間もない頃には本がまだ入ってなくてがら空きだった書架の、棚のひとつひとつを本が埋めていく様を、毎回目にしていたのでしょう。「はじめには」が何のはじめなのか、、どれくらい時間がたっているのかがちょっとわかりにくいと思いました。「本の数千」が大づかみ過ぎるという意見もありました。

13 まっさきに思い浮かべたのは、御池通りでした。夕日を反射して、アスファルトの大通りが静かな湖水のように平らかになっている様を思い浮かべ、そのような平らかさがあり得るのは御池通りしかない、と思ったわけです。そして突然に道が途切れる。この急な展開が夢の中のような不思議な感じを出しています。上句での文語調に対して、最後の「だった」はどうか、と疑問に思う声もありました。

14 「さよなら」はまさに「さよなら」という言葉そのもの、というよりは、さよならも含めた別れの言葉じゃないかなと思います。ただ、そう読むのは親切すぎるかもしれません。言えなかった言葉を口内で反芻している、噛んで含めるようにしているうちに、あおがどんどん濃くなっていくというのは分かる気がします。あおは、たくさんの衝動や、後悔、あきらめ、寂しさなどを含んでいるのでしょう。あお、あい、こん、では、「こん」でリズムが悪くなってしまっているという意見もありました。


[歌会後記]

今回は、年齢層が若い歌会でした。それゆえに、わかってきた問題点もいろいろありました。飲み会は、森さん、水野さん、かっちゃん、西之原氏、サワムラのおとなしめな5人でしめやかにエキサイト。今のうちに勉強して、批評ちょっとがんばろうや、と燃え上がって終了。帰りに河原から見た星々がきれいでした。かっちゃんの指摘で、私は木星とアルデバランを取り違えていたことが判明。どんまいどんまい。   
  • このページに掲載の歌稿は、作者の許可のもとで掲載しています。
  • 転載などを希望される場合には、京大短歌会のメールアドレスあるいは「お問い合わせ」より連絡ください。作者の意向を確認し、その都度対応を決定してご返信いたします。