一首評〈第122回〉

吉田恭大「わたしと鈴木たちのほとり」(「早稲田短歌」42号)

ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋 夜、度々通う

この文章は一週間で消える幻だ、しかしながら…それは世界の被投性、この欄のシフトという問題だ……。そうではない、「あいている」と何故信じられる…?いや、「信じる」ではもはやない、リアリズムと称呼される一種の宗教においては、「信じる」ことが可能だった、(信じることしか出来ない、)しかしここでは「そうで〈ありたい〉」だけだ、「牛丼屋」とは畢竟心的な喩ではあり得ず、しかし現実の物体でもあり得ない。世紀末とは勿論「末期」のイメージで語られるべきものであり、「ノストラダムス」「北斗の拳」などの背景を引き摺るおおきなケモノであるが、彼はかれを恐れては居ない……いや、恐れるという摩擦によってポエジーを生むことを拒否している。(あいている、がひらがなだ、……そして「夜に通う」のだ、そしてなんという完成度…。これを都市的な若者像という観点から評価する批評家を私は一先ず信用しない、しかしそうでないとも言い切れない…、しかし都市的若者像とはまさに、「きっと世紀末でもあいている」という言い回しにあることを私は信じている、いや…、)世界に摩擦がないとどうなるか、という哲学の試験においては何も書かずに退出するという解答が確かにあるだろう、が……それではそこに名前を書くことも出来ないではないか。なれば私たちは書くしかないだろう。なにものかを……。〈お互いの生まれた海をたたえつつ温めてあたたかい夕食〉リアリズムという摩擦の宮殿に閉じ篭る住人には分からないだろう、いや、私もやっと彼らのポエジーに追いつくことができたところなのだ、私はスキーやスケートが苦手で、後頭部をよく強打する、摩擦がないと身体を世界と相対的に動かすことが出来ない、…。「海を讃えあう」「温めてあたたかい夕食」という二人の小世界における純粋な肯定充足感だけを目の前に並べられた時、遅刻してやってくるせつなさ……?は何なのだろう。それが時代の感傷だ、…とでもいうべきなのか…。高柳克弘を引けば……。ふれたところから〈きっと〉蝶はくずれてしまう、それはやさしさではないし、あきらめでもない。蝶にはもはや、何処かに引っ掛かってもげた後ろ脚もないし、何かに破られた翅の欠損もない、頭も網戸に引っ掛かってもげたりはしない、むしろ翅の飛行と静止そのものだけが存在する、イデア的な、……。(〈外国はここよりずっと遠いから友達の置いてゆく自転車〉私は本連作一首目がリアリズム的な被投性によって動機づけられた一首であることを知っている、しかし……、ここにも新古今的な象徴性が、…「自転車」は摩擦に取り残された存在の象徴だ、……。だが、適当だ、などと莫迦を云ってはいけない。「友達の置いてゆく自転車」の異様な句跨りと、また、「置いて〈ゆ〉く」の「ゆ」、……この音がどう響くかを私の耳は知っている、…)摩擦なきものは無視される、が、次第にその圏内に捉えられはじめるのを私は知っている、確か鴎外の訳で見た、「死の圏」もそうだ、私たちは「死」を見ない(ようにしている)、が、次第にカーブしながらその圏へと引き摺り込まれる、宇宙空間における無摩擦と星の重力……。星は見えない、しかしそれに重力があるなら……、わたしたちは次第にそこへ墜落するしかないだろう、…

藪内亮輔 (2013年5月8日(水))