一首評〈第105回〉

北川浩久『オドロキ』

カーテンが窓の向こうにあふれいで風のかたちを示していたり

巻雲とよばれる雲を、ある子供がそんなことは無視してしまってスウスウ雲と命名した。そんな挿話をどこかで読んだことがある。
過剰な知識や常識に曇らされてない幼児の目は、美しいものをそのままに見てそのままに感じることができるようだ。幼児にとってまわりの出来事はすべてが新鮮なのではないか。彼らは日常に慣れてしまった人ならば目にとめることさえないものを、たやすく詩世界へと繋げる純な感覚をもっている気がする。

カーテンがある、カーテンが窓の向こうにふくらんでいる、風が吹いている。ふつう、人はそんな光景を目にしてもすぐに頭の片隅においやって何事もないようにその光景を目にする以前の考えに立ち戻る。しかし作者はこの光景に立ち止った。立ち止まって、向き合った。そしてカーテンの窓の向こうへのふくらみを「風のかたち」と感じた。わたしはここに“幼児の目”をみた。それはつまり、「人が平然と通り過ぎるところを立ち止まることのできる目」であり、「平生の生活で見慣れた、ありふれたものにも詩情を感得できる澄まされた感覚」のことだ。

ささいなことにも目をやって詩を感じとれる感性。その美しさ。
この歌はそれを思い出させてくれた。
多忙や精神の貧困で濁りかけたころには、一度さっぱりと目を洗いたいものだ。

延紀代子 (2011年7月15日(金))