一首評〈第96回〉

斎藤茂吉『赤光』

ゆふ日とほく金にひかれば群童は眼つむりて斜面をころがりにけり

斎藤茂吉の歌のよさは今の私にはわからない。よく引かれる有名な歌を含め、『赤光』を読んでも心に響くものは少なかった。ただ、ここに挙げた一首だけが不思議と印象に残ったのだった。

ひた走るわが道暗ししんしんと堪へかねたるわが道くらし  『赤光』
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり  『あらたま』
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ  『小園』

大雑把に言って、「われ」の濃厚な歌が多いと思った。実際に「わが」「われ」という語が頻出する。

それに対して掲出歌は、いわゆる「神の視点」から詠まれた歌のようだ。そして何といっても情景がうつくしい。初句と第四句が字余りになっているが、言うまでもなく四句目の字余りはスピード感を出す効果をあげている。斜面のてっぺんに横向きに寝て、体を回転させくるくると転がり落ちる、子供たちがよくやるあの遊びだろう。私の幼いころはシートなどを体に巻きつけて行ったものだが、きっと昔の子供たちは服が汚れることなど気にせず、そのまま転がっていたにちがいない。夕日が遠くに輝くなか、子供たちが次々に斜面を転がってゆく情景はとてもやさしい。「群童」という言葉が効いている。

また、私自身の経験から判断するに「眼つむりて」というのは眼を開けたままやると目が回ってしまうからなのだが、この歌から感じられる意味はそこにとどまらない。上句で描かれる「ゆふ日」の眩しさともつながるし、眼をつむるという行為からは「祈り」のようなものが暗示されるかもしれない。いずれにせよ、「群童」は斜面を転がるその瞬間には「ゆふ日」を見てはいない。見てはいないけれど、きっと閉じた瞼で夕日の眩しさを感じながら転がり落ちているだろう。遊びにおける子供たちの陶酔感と、作者のやさしいまなざしが溶け合うかのような一首だと思った。

大森静佳 (2011年2月5日(土))