塚本邦雄 星餐圖
靑年にして妖精の父 夏の天はくもりにみちつつ蒼し
第七歌集の巻頭歌。しかし、塚本の秀歌選などで取り上げられることは少ない一首である。岡井隆氏は、以前紹介した『辺境よりの註釈』において、「わたしたちは、この歌を読んで、一種不安な感じにおそわれる」、あるいは端的に、「この歌は歌として不出来」であると述べている。
その原因を氏は、「〈青年に・して妖精の・父 夏の〉という句またがり」が、「あえて音律の破っただけの意義をもっていないように思える」点にある、と分析している。
ここで僕がふしぎに想うのは、塚本の歌を親しむ者ならばまず、この初二句は「青年にして・妖精の父」と読みはじめるのではないか、ということだ。そして以下、「夏の天は・くもりに満ちつつ」と六八のゆったりとしたリズムで読みくだし、結句「蒼し」の四音欠落に到って衝撃を受ける。
あわてて読み返して、一首が「青年に・して…」とはじまる、正確に五七五七七の音律を内在させた超絶技巧でできていることに気づかされる。すくなくとも僕は、そのように読んだ。
この歌は七七六八三のリズムで味読するべきだと想う。岡井氏自身が指摘しているように、一首を含む連作の標題は「音楽は歇みたり」というのである。
連作中には、
夏至の夜の孔雀瞑れる孔雀園くれなゐの音楽は歇みたり
シューベルト「夜の菫」はやみてのち蒼し 失火のごとき愛のみ
という、韻律をモチーフとしつつ、比較的定型に即した秀歌もみられるが、塚本はあえて掲出歌を巻頭歌とした。
傑作「感幻楽」を上梓したあとの塚本は、ふたたび新たな韻律を模索する道を歩みはじめる。そのはじめに掲出歌が置かれたことの意義は大きいだろう。
一首の考察は、音律の面にとどまってしまったが、歌意については、永井祐氏の鑑賞がくわしい。ぜひ参照されたい。
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2005年04月03日「最近好きな歌」
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下里友浩 (2006年5月8日(月))