宇都宮敦 「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」
牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
ショート・コントの脚本のような一首。「酔っぱらって恋人の部屋を訪ねたときの会話なのだろう。マンガなら、次のコマで、百トンのハンマーで殴られるところか。」と荻原裕幸が『短歌ヴァーサス2号』で評しているように、ここで恋愛関係は「ボケ」と「ツッコミ」とに戯画化されている。
「ウーじゃないかな」という突飛な「ボケ」は明らかに「ツッコミ待ち」である。「ツッコミ」とは、「ボケ」に対する的確な理解がなければ成立しないように、作中の酔っぱらった主人公が期待しているのは、相手の「理解」以外のなにものでもない。
枡野浩一は著作『かなしーおもちゃ』のなかで、
「ツッコミどころ」のある短歌を秀歌として、
見開き右側にある短歌一首を、左側でイラストやレイアウトその他を駆使して「ツッコんで」みせるという、新しい歌集の方法を提示している。
「ツッコミ」の余地を残しながら、一首のなかで的確に「ボケ」てみせること。
このような秀歌観を、「ボケとツッコミの合わせ鏡」と呼ぼう。
では、次のような歌はどうだろう。
「ウナギイヌみたいな猫がみていたよ」 そいつはたぶんウナギネコだね 宇都宮敦
ちょっと勝ち誇って「パンツ見えてる」と言ったらしれっと「見せてるの」って 同
海にくれば海での作法に従って つまりははしゃぐ はしゃぐんだよ こらっ 同
「ウナギネコだね」という切り返しは、「ウーじゃないかな」と比較すれば、ツッコミづらい「ボケっぱなし」であり、むしろ一首は、「ツッコミ待ち」のボケに対してボケ返しているようだ。また2首めの「見えてる」という主人公のツッコミは、相手にかろやかにかわされている。
宇都宮作品においては、「ボケ」と「ツッコミ」に象徴されるような「様式」はけっして成立しない。それがもっとも端的に示されているのが3首めである。
「ボケとツッコミの合わせ鏡」という様式を疑い、解体することで、宇都宮は、
相手に対する理解など、はたしてありうるのか、と問いかけている。
「理解することばかりが愛情ではない。理解しえぬ孤独に堪えることも愛情です。愛情があれば、その孤独に堪えられましょうし、また相手の孤独を理解しうるでしょう。」(福田恒存/『私の幸福論』)
さて、ここで僕が疑問におもうのは、
このような宇都宮作品の恋愛観は、
「孤独」への視線を投げかけるにもかかわらず、
宇都宮作品をどれだけ読んでも、
主人公や、恋愛相手の「個」としてのパーソナリティがほとんど明らかにされないのはなぜか、ということだ。
「個」(#あるいは歌論でしばしば問題になるタームでいえば「私」)を曖昧にしか描かないという方法論は、
(一瞬の光景を切り取ることで、相聞歌であればその相手の全人格・全人生を象徴してしまうという、
短詩形がもつ本質的な残酷さと相まって、)
「個」を、ステレオタイプなキャラクターに還元してしまう危険性をつねに伴っている。
「牛乳を逆から開けてしまう」ふつうの女の子を、微笑をもって受け入れてしまってよいのか。もしかしたらこれは、「ツッコミ待ち」の「ボケ」ではないのか。ツッコむのなら、どのようにツッコむべきか。そのような問いや模索を、完全に放棄してしまってよいのだろうか?
このシチュエーション、はたして「スルー」してしまってよいのか?
下里友浩 (2007年3月1日(木))