一首評〈第38回〉

塚本慶子 「花零れり」

落魄と思はぬ日さへ追はれ來てつひに立たされし夏野なりけり

「もともと短歌といふ定型短詩に、幻を見る以外の何の使命があらう。」という『短歌考幻学』の有名な一文に、塚本邦雄の短歌観は集約されている。
しかし「幻を見る」のは、いったい誰なのだろう?

掲出歌は邦雄の夫人・塚本慶子の若書きの一首。
「追はれ來て」とあるが、具体的な何ものかに追われて辿りついた、とは思いにくい。立ちすくみ振り返ったとき、頬に夏日斑の浮かぶこの妙年の女性には、自分の過去がすべて「いま」へ向けての前奏曲のように思われたのだろう。

その先が「夏野」であることに驚かされる。

花も紅葉もなく、ましてそこは袋小路でもない。灼かれつつただ眼の前にひろがる「無」の空間に、女性は何を見たのだろうか?

『短歌考幻学』には、引用文のしばらくあとに、「韻律は啓示の呪文性の無上の官能的効果として、離れがたく存在する恩寵である。」という一文が存在する。
一首は蒼穹のように区切れなく、「夏野」の一語に収束していく。読者は共犯者のように、夏野の幻を手渡されることになる。

下里友浩 (2005年12月1日(木))