一首評〈第75回〉

フラワーしげる 『短歌研究』2008年9月号

きみが十一月だったのか、そういうと、十一月はすこし笑った

 上句の、詰問とも嘆息ともつかないつぶやきの中には、意外に感じながらも予定調和を受け入れているような響きがある。それもそのはずで、「十一月」は以前から自分のそばに、ずっとい続けていたのだ。たとえば五月や七月という姿で。
 季節は移り変わり、一度過ぎ去った五月や七月は二度と帰ってこない。いづれ年が廻るにしても、ふたたび同じ姿の五月や七月に出会えるという保証はなにもないのだ。この歌の発話主体はそのことに、十一月になってから、あるいはその十一月さえ過ぎ去ったのちに気付いた。というより、思い出した。
 そのとき十一月とは、主体を取り巻く環境と、そして主体自身の変化をも含む世界の総体である。単なる冬の季節のキャラクタライズではない。世界は発話によって現前したのだ。
(しかし、それはそれとして、ぼくは十一月の外観として、すこしはにかんだ様な少女をイメージする。すこし地味で、だぼだぼのセーターなんかを着ていて、明るくしゃべることも多いが、今はちょっと困ったような様子で、すこし笑っている。そんな、世界そのものである少女。イラストは鶴田謙二。いや、もちろん、少女とはどこにも書かれていないのだが。)

 考えてみれば、「きみが~だったのか、そういうと、~はすこし笑った」という構文に目新しいところはない。それどころか通俗的で、陳腐であるとさえいえる。~の部分に「犯人」とでも入れてみれば一目瞭然だ。作者は当然、そのことを承知の上で、パロディとしての相対化を狙ったのだろう。なにに対しての相対化かというと、十一月が世界の象徴である以上、世界の相対化でしかありえない。ここで「十一月」を選択した作者のセンスが発揮され、仮にこれが「七月」などであったとしたら台無しだ。


 そして作者はこの定型の中、かろうじて、世界を具現化し、世界と向きあうことに成功している。

 それにしても、ずいぶんと段階を踏んだものだ。まず、短歌という定型の選択がある。それからさらに、構文としてのパロディと、表記における句読点とで武装し、ついには世界を擬人化した。ここまでやっておいてなお、作者と作中の発話主体は、別に世界を同化したわけでも、受容したわけでもない。なされたのは対話以前の対峙であり、それも、問いに対して帰ってきたのは、わずかな微笑みに過ぎない。そしてその微笑みは、問いを否定してはいないが、全面的に肯定しているわけでもない。拒絶されているわけではないが、さらに進んで問いかけ以上のことを行おうにも、受け入れられる気はしない。総じてあらわれるのは、消極的な和解とでもいうべきものだろう。

 ところで掲出歌は、第五十一回短歌研究新人賞佳作として、『短歌研究』2008年9月号に五首掲載された中のひとつである。紙面でのかたちは以下の通り。


 きみが十一月だったのか、そういうと、十一月はすこし笑った
 ホームに立っていると指先の分かれた少年が来てここは誰も短歌を知らない町なんだという
 きみが生まれた町の隣の駅の不動 産屋の看板の裏に愛のしるしを書いておいた。見てくれ
 柑橘の薄い皮の上に妖精がすわりいやぼくはもういちおう少年ではないのです
 マーク・トゥエインの手にしたる瓶のラベルの少女や存在の明るさや


 短歌研究新人賞は30首の連作を公募するものであるから、掲載された5首のみで判断するのは、早計のそしりを受けても仕方ないかもしれない。受賞しなかったことが残念でならず、なんとかして残りも読んでみたいと思っているのだが、なかなか機会を得られないでいる。それはともかく、歌にはわからないところも多い。2首目「指先の分かれた」とはどういうことか、指割れクツシタむきだしだったのか。5首目「明るさ」は「存在」のみにかかるのか「少女」を含むのか、そもそも「存在」ってなんだ、などと文句の種はいくらでも見つけられる。

 それでもぼくは、この一連のさみしさに強く魅かれる。短歌と出合う前のぼくに見せたら、そのまま短歌をはじめてしまいそうだ。3首目、愛を知らせるというただそれだけのために、「きみが生まれた町の隣の駅の不動産屋の看板の裏に愛のしるしを書いて」おき、さらに「見てくれ」と念を押す、これだけの手続きが必要だったのだ。いっそのこと断念してしまえば楽になれるのに、その不可能性を知りつつも、世界とのつながりを求めずにはいられない。ついでにいえば、「きみが生まれた町の隣の駅」というのは随分と念入りなはぐらかしであるし、「不動産屋」というのも、腰を据えた生ではなく漂流者の生に相応しく、一見適当に言葉を並べたような一首が周到な計算に上になっていることがわかる。その認識のさみしさには慄然とさせられる。愛もまた、愛そのものではなく、その「しるし」が誰からも見えないところに置かれているに過ぎないのだ。世界とリンクすることへの志向が、たまたま愛という表象を借りて出現したのだろう。

 短歌定型を大きくはみ出したこれらの作品は、しかし単なる饒舌などではない。それは、これらの歌から過剰さではなく、むしろストイックさが感じられることからも明らかである。なにやら、これだけ言わないとみんなに気付いてもらえないから、仕方なしにしゃべりまくっている、そんな気配がある。


 しかしそれほどのことをしても、みんなは短歌なんて知らないし、きみは困ったように微笑むだけだ。
 自分と世界とのつながりなど、仮に世界そのものとの対面を果たしたとしても、この程度なのか。
 いや、そうではない。自分には愛がある。愛を言葉にして告げることが出来る。
 その言葉が書いてあるのはここだ。
 きみが生まれた町の隣の駅の不動産屋の看板の裏だ。
 行って、見て、なんて書いてあったのか教えてくれ。
 ぼくが少年でなくなる前に。(これは言いすぎだろうが、しかし……)

吉田 竜宇 (2008年10月1日(水))