一首評〈第74回〉

魚村晋太郎 『花柄』

あなたが退くとふゆのをはりの水が見えるあなたがずつとながめてた水

 魚村晋太郎の『花柄』を私は主体と主体の中の「あなた」をめぐる物語として読んだ。もちろん他にも様々な読みが可能な歌集であり、それ以外の要素も感じたが、今回はそのことだけに話を絞ろうと思う。
 まず、歌集の序盤にある「芯」という連作では、主体と「あなた」の関係が示されている。

  逢ふたびに違う番号のドアをあけてにくしみをひとつ教へてもらふ (詞書、p22) 
  殴られたあとに抱かれていることをはじめて聞いた。夏の終りに (詞書、p23)

「あなた」は主体の恋人であるが、夫がおり、彼に暴力を受けている。

  シェルターの場所は誰にも言へないといふ。連絡も(たぶん)できないと言つた (詞書、p23)

「芯」の終わりは、「あなた」との別れを予感させる。
「あなた」を集中的に扱った作品は「芯」のみだが、その後も「あなた」は幾度か登場する。

  憎しみには匂ひがあるといひながらあなたは濡れた羽根をこぼした (p58)
  ゆるされて、あなたは皿の仔羊の肉によりそふ香草である (p116)
  小春日はやさしくかげる頬をむけくちづけをこばむあなたのやうに (p157)

 一首目。情景の主題は「あなた」だが、歌の主題はむしろカメラとしての私と、「あなた」との距離感だろう。羽根を持った天使と、地上に繋ぎ止められた人間。
 二首目、象徴化された「あなた」が映像的に描かれているが、ここでも、「あなた」が「よりそふ」のは「仔羊の肉」であり、それをただ見ているだけの主体の姿が浮かび上がる。
 三首目では、「あなた」との距離は、二重化されている。「こば」まれること、全体が喩でしかないこと。
 主体は「あなた」と隔てられながらも、繰り返し「あなた」を歌う。
 だが、その「あなた」が「退く」ことによってはじめて、見えていなかったものが見えてくるのである。

  何をかなしみにゆくのか(ゆくやうな顔をして)冬の車窓にひとは (p41)
  もうささへきれなくなつてゆきやなぎねむりからだをゆらすのだろう (p136)

 それ以外の季節の歌も多いのだが、歌集全体としては圧倒的に冬のイメージが強い。冬の情景を通して、主体のマイナスの感情が描かれるが、冬という季節はあなたとの隔たりを象徴するものとなっているのだろう。マイナスの感情も、100パーセントそうだと取るのは間違いだろうが、「あなた」に関するものが含まれていることは間違いない。
 だから「ふゆのをはり」なのである。
 
  諦めてない、といふ嘘 三月のひかりの幹を水は奔らむ (p50)
  手放してから諦めるまでの日日 鉄路は雨に濡れて交じはる (p51)
 
「あなた」に対する諦めに関する(と考えられる)歌を引いてみた。しかしながら、「諦め」とは気持ちの封じ込めに過ぎないのだろう。
 
  ふゆの樹の体温だつた抱きしめてくれるとき背にまはす両手は (p182)
  来なかつた返事のやうに自転車のかごに亜米利加楓あめりかふうのいちまい (p184)

 今度は未練を描いた(と読める)歌。やはり「あなた」への気持ちが失われているわけではない(そもそも失っていたら「諦め」なんて言葉自体出てこない)。
「ふゆのをはり」の歌において主体は、一つ違う次元に達しているように思える。そのような境地に達したことはないため、実感としては分からないが、自分に「あなた」を求める気持ちがあることを自覚した上で、「あなた」と隔てられていることも自覚し、かつその現状を受け入れている、そんな状態ではなかろうか。
 そこにおいてはあなたへの執着がもはやなくなっている。執着がないからこそ「あなたが退く」と自然に言えるのだろう。
 あなたへの執着が消えたことにより、自分のこと、「あなた」のこと、自分と「あなた」のことを、主体は冷静に見られるようになった。「あなたがずつとながめてた水」を見る視点を主体は獲得したのである。
「あなた」から遠ざかることで、むしろ「あなた」に近づく、というパラドクスは上記のようにして成り立っている。
どのようにしてその境地に至ったかも少し見ておくことにしよう。本来ならこれは歌集全体から読み取るべきだろうが、ここでは直前の三首を引用するにとどめておく。境地に至る瞬間がそこにはある。

  つぎつぎと繭の背われてわたくしの(不安だ)冬の空あらはれる (p193)
  パンの屑しるべにおとす兄妹のやうだつたふたり落葉をふんで (p193)
  踏みまよふのもよろこびであつたこと真冬の森に月の射すまで (p194)

 一首目、自己の受容には、自己との向き合いが必要なのだろう。それは「不安」を伴うものだが、それを乗り越えなければならない。
 二首目、これは「あなた」との日々の回想と取れるが、とても穏やかで、「ふゆの樹の体温だつた」の歌のような未練はそこにはない。この首においては、過去の日々が純粋に肯定されている。これは自己と向き合うことでしかできないことなのだろう。
 三首目、今度は過去の自己に対する肯定である。ネガティヴな記憶はここにきてポジティヴなものに再構築される。

  橋脚に裂かれた風はよりそつて沖へ出てゆくまぶしい沖へ (p195)

 直後の一首。
「橋脚に裂かれ」、隔てられても、けして二人は離れているわけではない。
 思うに、実は「あなた」との距離は、主体の認識とは違って、実際そう遠いものではなかったのではないか。
 だとすれば、「あなたが退く」というのは、主体の中の「あなた」が消え、実体としての「あなた」が見えるようになるということなのかも知れない。

  逢ふことはないだらうあなたの窓にけさ鳴く百舌鳥とこの谿の百舌鳥 (p125)

「あなた」との隔たりを作っていたのは、案外主体の方だったのではなかろうか。

吉岡太朗 (2008年8月1日(金))