一首評〈第143回〉

斉藤斎藤 「ちから、ちから」『渡辺のわたし』(bookpark、2004)

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

昨夜(2015年6月3日)、テレビ朝日系列の「マツコ&有吉の怒り新党」で、斉藤斎藤さんの短歌が紹介されていた。Twitterなどで視聴者からかなりの反響があったようだ。

掲出歌が紹介されると、スタジオには笑いが起きた。確かに、この歌における「のり弁」のとても唐突な出現、「のり弁当」の省略語であろう「のり弁」のインパクトは、短歌という形式へのprejudiceによって振幅を増幅し、コミカルなものとして受け止められる。現代の社会のチープな消費の部分を軽いタッチで描きとることで、生々しさを出すという手法は斉藤の他の作品にも見られる。

一方でこの歌はとてもレトリカルだ。「あるいてゆけば→なんでしょう」と、「ゆけば」による接続がとてもあいまいになされる。そしてなんでしょう、と一休止置いたあとに「ぶちまけられて→これはのり弁」と、また「て」によるあいまいな接続が現れる。
「なんでしょう→ぶちまけられて(いるもの)→のり弁」と、その違和の正体にだんだんとピントが合っていく。私たちの現実の認識の順番にとてもフィットしている。文体のねじれがあっても、ピントの合い方がスムーズなので読者はそれに一瞬気づかない。

僕がこの歌をはじめて読んだのは短歌をはじめて1ヶ月にも満たないころ、小高賢によるアンソロジー『現代の歌人140』(新書館、2009)を通じてだった。

うつむいて並。  とつぶやいた男は激しい素顔となった

自動販売機とばあさんのたばこ屋が自動販売機と自動販売機とばあさんに

腹が減っては絶望できぬぼくのためサバの小骨を抜くベトナム人

題材や、文体、ナンセンスさというものの新しさに目をひかれて、斉藤斎藤の歌に興味を持ったのを覚えている。

けれど、歌集を通じて読んだときに、たとえば掲出したのり弁の歌や、「怒り新党」でも取り上げられた〈このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい〉などの歌は、初読時とはまた別の様相を持って現れてくる。このあたりを斉藤はかなり意識的に行っているというのがとても重要だ。フラットに見えて、容易に見えて、実はそうじゃない。

第2回歌葉新人賞を受賞した「ちから、ちから」から数首引用する。歌の横の数字は連作内での順番である。

1 「だぁ~れだ?」あなたの声とぬくもりの知らないひとだったらどうしよう
2 とりとめのないきれいごと聞きながら君のかけがえのなさを想った
3 目に見える桃を欲しがるくちびるがくやしくてくちびるで塞いで
5 つないでないほうの小指でブラジルの首都ブラジリアはもう気持ち右

連作序盤、恋人とおもわれる親密な相手が登場する。ここから物語ははじまる。「くちびるが/くやしくてくち/びるで塞いで」のk音のリフレインや、「くち/びる」とu,i,i,uの母音列の対称軸に句の切れ目を置くことによるリズムの効果が見えないところで効いている。ブラジルの首都ブラジリアはもう気持ち右ってなんだよ、って思うし(首都の位置当てゲーム??)、実際なにかわからないけれど、手をつないでいる相手との親密な空気感はわかる。

11 君のはつ恋のはなしを聴いてたら吐き気してきた背中さすって
12 急ブレーキ音は夜空にのみこまれ世界は無意味のおまけが愛
13 医師はひとり冷静だったぼくを見た もうそろそろ、とぼくが殺した
14 まばたきのさかんなひとをながめてた 唇でぼくにはなしかけてた
15 このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい

そんな「君」と一緒に過ごしていて急に交通事故が起きる。(11から12の流れはとても急だけれど、交通事故はいつだって急なものだ)12や13は連作の物語を進める歌であるために、秀歌性を帯びているわけではないが、上の句で状況を提示し、下の句がそれに謎を残すような変な形でついている。14はフラッシュバックする恋人の姿だろうか。記憶のことだからこそ、映像はありありと浮かべど、声をナマな形で再現できなかった、とも読める。とにかく、「君」が交通事故に遭って亡くなったということを、連作を通じて読み取ることが十分に可能だ。

ここで15の「三十一文字であらわしなさい」という歌があらわれる。シリアスな場面に置かれることで、また、「見た」「殺した」「ながめてた」「はなしかけてた」と、自身の行動だけを描き、感情描写を抑えたのちにこの歌が現れることで、「あらわしなさい」と言いながらも(むしろ言うことで、)自らの抑圧された感情の溢れのようなものを読者に感じさせる。(ちなみに16番目にあたる行は歌集中で空白となっており、読者が好きに一首を書き込めるようになっている)
ふざけた形をしていながらも、感情を見せないことで感情を見せる、というのは短歌形式のなせる技だろう。

18 ひざまずくのをこらえてこらえ雲ですね、雲ですよねとつぶやいてこらえ
19 あけがたのわたしはだしのまえあしでまるぼろめんそおるに火をともす

19の歌の前に「二年後」という詞書がある。その歌以降の時制が恋人の死から二年後であることを示唆しているのだろう。

21 ひょっとしてパスタは嫌いだったんじゃ自動改札に引っかかる

二年が経って普通の生活をしていて、自動改札を通ろうとしたときに、ふっと亡くなった恋人のことを思い出す。「パスタは嫌いだったんじゃ」と。「嫌いなんじゃ」ではなく、過去形になっている。もう確認することはできないのだ。ふとしたフラッシュバックによって自動改札に引っかかってしまうのである。

28 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁

そして掲出歌が満を持して登場する。「雨の県道」というのは事故現場かもしれないし、そうでないかもしれない。すこし遠くになにかぐちゃっとしたものがある。「なんでしょう」。二年前に事故に遭い、血を流して倒れる恋人の姿が脳裏によぎる……よぎらざるを得ないだろう。恐怖やトラウマや困惑をないまぜにしたわけのわからない感情が「なんでしょう」に無意識的にこもる。近づいてゆくと、それは無残に道に放たれたのり弁だったのだ。
なお、三上春海氏はこの「のり弁」を、自身の嘔吐ではないか、と書いている。(http://d.hatena.ne.jp/kamiharu/20130428/1367158144)
三上氏は「なんでしょう」の意味を「歩いているときに恋人の死がフラッシュバックして頭に浮かぶ疑念」とわりかし単一的に持たせようとしているように思える。そこから「ぶちまけられ」るのり弁への描写にいたる飛躍はこの一首だけで担保されるだろうか。むしろのり弁が今そこにあるからこそ、「なんでしょう」が多層的な意味を帯びうるのではないかな、とおもう。(もちろんフラッシュバックによって嘔吐をするという可能性は往々にあるし、それがぶちまけられてからのり弁だと把握し直すこともとても面白いと思うけれど)

29 泣いてるとなんだかよくわからないけどいっしょに泣いてくれたこいびと
31 あいしてる閑話休題あいしてる閑話休題やきばのけむり

29のような歌を28の直後に置いていることからも、斉藤はかなり意識的に「のり弁」の歌に多義的な文脈を盛り込もうとしているように思われる。もちろん一首単体ではレトリカルで、コミカルな叙景歌というのを志向してはいるのだが。一首単体での現代性を帯びた叙景歌としての完成度の高さに、連作を通じて〈わたし〉の感情を盛り込み、叙情歌としても完成させたのである。
そして31番、連作の最後に置かれた歌である。「あいしてる」は一度閑話休題で話を逸らされるのだけど、再び現れてしまう。諦めきれない恋愛感情が根底に流れている。そして二度目の閑話休題の後は、火葬場の煙が出てくる。愛と死がどうしようもなく混ざってしまうのだ。「やきばのけむり」を見ることで、失った恋人を何度でも思いだし、何度でもその愛に立ち返ってしまうのだろう。

「のり弁」や「三十一文字であらわしなさい」は一見してものすごくナンセンスだ。
そのナンセンスさばかりに目が行ってしまいそうになるけれど、斉藤斎藤の持ち味は口語レトリックの追究によって立ち上がる現代的な抒情・叙景だと思う。

君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景にもどった

風にふるえる橋をあるいて間に合わない信号の青見えながらわたる(「湾岸をゆく」『神楽岡歌会100回記念誌』より)

ヤマダ電機の二階がとても駐車場で車がいない空を見上げる(同上)

「ぼくはもとの背景にもどった」にせつない抒情を、「信号の青見えながらわたる」「二階がとても駐車場で」などの言い回しに新鮮さを感じるのだ。

第二歌集を心待ちにしている。

阿波野巧也 (2015年6月4日(木))