花山周子 『風とマルス』
どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く
私〉が、どうしても君に会いたいという気持ちになっている昼下がり、分かる。〈君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか/永井祐〉みたいな静謐な会いたさを予感したっていいはずだ。しかし、そこから「しゃがんでわれの影ぶっ叩く」と、ある種衝撃的な下の句に展開する。その急展開と「ぶっ叩く」という結びで、なぜかこの〈私〉は本気で言っているのだ、と思わされてしまう。
あるタイプの構造の歌は、永田和宏の「問いと答えの合わせ鏡」という言葉で説明できる。例えば、〈風を浴びきりきり舞の曼珠沙華 抱きたさはときに逢いたさを越ゆ/吉川宏志〉は、上の句の曼珠沙華がまずイメージとして提示されて、それから下の句のテーゼを通過することで喩的な対応とエネルギーを得て増幅されるのだ。花山の歌はそういった合わせ鏡のやぶれたところに存在している。すでに型として存在する詩情(それにはそれのよさがあるけれど)の流れに回収されることが拒まれていて、圧倒的な本気さを突きつけられる。
もちろん、上の句と下の句がずらされているということだけによって、歌が本気っぽくなるというものでもないだろう(たとえそうだとしても、魅力的な歌であるかどうかとはさらに別問題だ)。掲出歌では、繰り返される濁音、下の句の4・3・2・5(この結句を2・2・3や2・1・0・3と考えても面白い気がする)など単語の中の強弱や長さから、意味だけでなく韻律によっても下の句のスピード感が生み出されている。また、口語文語が混ざっているということ自体はめずらしくないけれど、口語的に続く歌の途中で突如「われ」が登場し、そこから「ぶっ叩く」と現代語の文章でもなかなか書かないような語を出してくるのは、「旅なんて死んでからでも行けるなり*」のような、衝撃波でエネルギーを生むような混ぜ方だと思う。このような下の句への展開やそのエネルギーの強さがそのまま「どうしても君に会いたい」という甘く流れかねない表現と感情を担保しているのだ。
先程合わせ鏡のやぶれと書いたけれど、この歌はあるずらしの型として読むことができる分かりやすい方の歌で、花山の本領はまた違うところなのかもしれない、とも感じている。私が花山の歌をすごいと思うのは、短歌的にすでにある型に落ち着けるための歌になっていないこと、本気の〈原体験〉的なものが込められているように見えるところだ。しかし、ずらされていることが、なまの体験が表現されていることが魅力的だ、というのは本当に適切な評の言葉なのか、ということについては更に考えなくてはいけないと思う。
さすが神が集まっていないだけのことはある水無月出雲大社閑散
春の陽を受けて反りたるベニヤ板にうすい私の影が反りおり
小学校集合写真に誰よりもわれに似ている子のわれが居る 『風とマルス』
五時十五分 二十六℃ 4日
雨に濡れて少し娘を恨みおりごめんねと言う子の頭を撫でる 「季節の歌 7月」 角川「短歌」九月号**
*旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る/吉川宏志『海雨』
**作品連載のタイトルを「○月」として、一首ごとに時間・気温・日付の詞書をつけていくの、率直にびっくりしてすごいと思った。
牛尾今日子 (2016年9月25日(日))