石井僚一 「海老の天ぷらを置く」『死ぬほど好きだから死なねーよ』
きみが死ねばぼくは悲しいから雪の原野に海老の天ぷらを置く
集題で「死なねーよ」と言っておきながら、身近な他人の訃報や死のモチーフがあちこちで扱われるのが、本歌集の特徴である。前掲歌はネットプリント掲載歌の一つでもある。
初句から「きみ」の死が想定され、それに対し「ぼく」は「雪の原野に海老の天ぷらを置く」。一見句切れがなく、はじめからおわりまで流れるように読まれる歌だが、きちんと数えると初句六音の、定型をある程度遵守した歌であることがわかる(きみがしねば/ぼくはかなしい/からゆきの/げんやにえびの/てんぷらをおく/、前から六・七・五・七・七)。 しかし本歌において定型は短歌らしさ以上の効果をもたず、むしろ「きみ」の死という仮定をふりきるように、歌の中で息をつく間もなく畳みかけられる。
そうした切迫感の中で「ぼく」は、どういうわけか「雪の原野に海老の天ぷらを置く」。だだっ広い雪原に一尾の天ぷらを置く様子は、クスッと笑えるシュールさすら感じさせる。海老の天ぷらは雪の原野に置かれる頃には(というか雪の原野に向かう道中で)冷めてしまっているだろうし、なんならその行為を見る人もまわりにはいないだろう。「きみ」と「ぼく」以外の人間が想定されないこの歌の中では、そうしたわけのわからない行為は非現実感をもたらす。その非現実感もまた、「悲しいから」という不可解な接続語によって理由を与えられ、一首を通して共感できなさのようなものを生んでいる。
意図的なリアリティの排除は、しかし、逆説的に「悲しいから」という理由によって居場所を与えられている。そう、「ぼく」は、ただ「悲しいから」、「雪の原野に海老の天ぷらを置く」のだ。それは「きみ」の死という想定されたリアリティを無化しようとする必死の行為にもみえる。ただ「悲しいから」という理由で、この歌は成立することができる。その意味では、先の「共感できなさ」のようなものは、歌にとっての成果であるだろう。「きみ」の死は、そのリアリティを徹底的に排除することが目的であるために、決して読者に共感されてはならないのだ。きっと「ぼく」すらも、その非現実には属しきることができない、本当に「きみ」の死に立ち会ったときに、「ぼく」は「雪の原野に海老の天ぷらを置」きにいくことなどできない。ここで提示されているのは、そうした「共感できなさ」や「非現実感」に裏打ちされる、徹底された悲しみなのだ。こうした感情の加速機械としての短歌の作り方は、石井僚一のすごみだと思う。
金山仁美 (2018年6月28日(木))